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7つの峠の国へ


今回の行程 於11月3日(月)

自宅〜嵯峨〜六丁峠〜保津峡〜水尾〜神明峠〜樒原〜越畑〜神吉〜日吉〜胡麻〜水分の道〜下山〜高屋川〜丹波町〜観音峠〜園部城〜八木〜千代川〜本梅〜能勢〜堀越峠〜犬甘野〜犬飼川〜亀岡〜老ノ坂峠〜洛西ニュータウン〜中之島〜自宅


 どうも、更新が遅れてますな。いやはや申し訳ない。何故、大和郡山、飛鳥の記録をさぼってるのか? 早速耳に痛い質問ですな。え〜、一つずつ言い訳していきましょう。まず、大和郡山の件ですが、実は飛鳥行った時からデジカメの機種が変わりまして、それ以来まだ回収できてません。自分が使ってるPCは“Windows XP”と言うなかなか頑固な機種で、メモリーカードなんか全然受け付けないんですね〜。一応、新しい機種のデジカメとUSBは受け付けてくれますが・・・。では何故新しい機種のPCを買わないのか? 単純な話です。そのことを親に言ったら雷落とされて、それ以来全然聞いてません。

 続いて、飛鳥遠征についての言い訳。夏休みの終わりに親戚の家に泊まり込みで行った空前絶後の規模の大遠征でした。新しい機種のデジカメでいっぱい写真も撮り、デジカメのメモリーに保存して置いたんです。・・・、10月ぐらいになっていざその記録をつけようとすると・・・

何故かメモリー中に写真がありません!

 慌てて親に聞いてみると、「もうUSBに移したから消した」。んで、改めてUSBの中身を見てみると、何か確かにそれらしい写真が17枚程あるんですが・・・何か終わりの方のヤツしかありませんよ。それに、管理人の記憶に間違いが無ければ150枚は確実に撮ったんですよね〜。改めて親に聞いてみると驚愕の返答! 「お前撮ってないんとちゃうか!?」。最早予想外。私絶対帰ってきた日にいろんな写真見せたけどな〜。当然デジカメのメモリーにもUSBにも写真はありません。相当ショックでしたねぇ・・・。てな訳で、更新するにしても、写真無しですし、このショックから立ち直るまでは絶対に更新しません!

 記録的な長さの前置きでしたね。で、本題です。文化祭明けのショックも醒めやらぬ11月2日、管理人は遂に、未だ全然足を踏み入れてなかった丹波国船井郡へ旅立ちました。正直な所、本当はこの1週間前に遠征する予定だったのですが・・・その日は土砂降り! ナポレオンも敗退した雨に管理人が立ち向かうのも所詮は無益な話。それに向かう先は山の中です。スリップ地獄になること間違い無しだったので、この日は諦めます。それで2日出発という訳なんですが、この日に出発したせいで「古本祭り」のことが完全に脳裏から抜け落ち、結局行けなかったという・・・。誰でもない、自分のせいなんですがね・・・。
 ついでに、申し遅れましたが此度の遠征、調子に乗って300枚もの写真を撮ってしまったため、何と計40MBにも成ってしまいました。私のレンタルサーヴァーの容量は確か100MB。増量申請しなくちゃなぁ・・・。

 朝6時前に出発、その後紙屋川を渡って所謂「衣掛の道」に出ます。衣掛の道に出た後はひたすら自転車を漕ぎ、あっという間に化野付近に到着します。化野と言えばその昔、東の鳥辺野、北の蓮台野(今で言う「紫野」)と並んで、死者風葬の地とされ、この辺りのちょっとした観光名所ともなっている化野念仏寺境内の約8000に及ぶ石仏石塔は、この一帯に葬られた人々の墓地であるそうな。念仏寺も、弘法大師こと空海が野晒しになってる遺骸を埋葬したことに始まると言います。要は、昔都で死んだ人をそのまま放置しとくと、疫病が発生したりするので、そういうことが起こらぬように、都の外でなおかつ簡単に遺骸を捨てに行ける場所に死者を風葬したという訳です。風葬はチベットや中央アジアではごく最近まで行われていたとのことですが、それを改めた空海も偉いというか、さすがは日本の仏教史に不朽の名を刻む人ですねぇ。


 さて、化野念仏寺を少し過ぎると、朱色の映える大鳥居にさしかかります。地図を見ても気付くことですが、この辺の地名が「嵯峨鳥居本仙翁町」「嵯峨鳥居本六反町」「嵯峨鳥居本中筋町」と言うように、鳥居本と付く地名が多いのは、偏にこの鳥居によるものと考えられます。この大鳥居前で道は左右に分岐し、右の道をとるとメインルートっぽい舗装された道が続いており、試峠経由で清滝へ行くことが出来ます。左の道は何か闇に呑まれているあたり、明らかに獣道臭いのですが・・・前日既に右の道を通って清滝に行ってることですし、今度は左の道を行きましょう。さしあたっての目的地は――越畑ですな。

 しかし、予想通りと言えば予想通りなものの、鬱蒼とした木立の中、早くも異常気象時交通規制区間に突入! 幸先悪ぅ〜。しかも落石注意て・・・。ろくな道じゃありませんな。傾斜はまずまず――とは間違っても言えませんね。なおも鬱蒼とした木立を進んでいくと・・・もうお判りの方もお出ででしょうか? 峠につきもののヘアピンカーブ登場です。しかも見た感じガードレールが三重・・・。初っ端からハードですねぇ。


 んで、ヘアピンカーブをうにゃうにゃ登り、暫くすると――もう六丁峠の頂上だと!? 最初の印象の割に意外と呆気ない・・・。ついでに、左の写真に見えるように峠の上を横切る高架は「嵐山高雄パークウェイ」と言って、念仏寺付近から高雄まで行ける車専用の道です。当然車しか通れない訳ですが、もし通って良いとしても自転車で行くことは到底オススメできません。地図で見た感じ、尾根をうにゃうにゃ曲がりながら進んでるえげつない道というのが真相のようです。まぁ、怒られるの覚悟でアタックしてみるのも一興かと。私は遠慮しておきますが・・・。

 こうして見ると、大分昔から使われている道のようで、斜面が所々石垣で舗装されています。考えてみると、これから行く越畑が、半ば飛び地のように丹波国に食い込むような形ながらも山城国に属していたのは偏にこの道によるものと言えますから、当然と言えば当然かも知れません。そして、降りはかなり爽快です。ヘアピンカーブの中を風を切りつつ降っていきます。北山杉の木立の向こうには清滝川か保津川が見えるはず――ですが霧がかかっているせいかあんましよく見えませんね。


 次第にヘアピンカーブはえげつなさを増していきます。降りだから良いようなものの・・・。今いる道の下を更に続く道がくぐるというヘアピンカーブは――登りの時は特に――精神衛生上よろしくありません。「行きは良い良い、帰りは怖い」の代表例と言っても過言ではないでしょう。さて、そろそろ霧がマシになってきました。中央の写真に写ってる川は――多分清滝川ですね。笠峠、中川、高雄、清滝と流れてきたこの川もやがて保津川に合流して桂川となります。――厳密に言うと違うんですが、長くなるのでここでは省きましょう。それはさておき閑話休題。ここのところ、斜面はほぼ全部石垣で舗装されています。今や殆ど誰も通ろうとしないこの道も昔はさぞやたくさんの人が通ったんでしょう。今や、その役割は車の普及と共に凋落し、山陰街道に完全に取って代わられてますけどね・・・。


 しかし早いもので、右の写真のように下を見ると、ヘアピンカーブももう終わり。なんだか名残惜しいですね。いや、多分これも今まで殆ど下りだったからだと思いますがね・・・。このいかにも新しげな橋を通ってトンネルをくぐると、その先には保津峡が広がっています。当然清滝川も急流になって保津川へ流れ込んでいきます。右の写真をご覧下さい。とんでもないが怒濤の如く流れ落ちています。桂川で小舟がよく使われていても、清滝川では全然用いられないのが何故かご理解いただけたでしょうか。
 小舟に乗って「わ〜、高雄だ〜」「清滝だ〜、紅葉綺麗だな〜」なんて言ってる間に滝に呑まれて、天国へまっしぐら・・・という訳です。小舟もぶっこわれますから採算に合わないのもありますね。しかしまぁ、すさまじい滝ですな。


 トンネルをくぐるとそこは――保津峡でした。保津川の荒々しい流れが霧に覆われた谷間をうねうねと嵐山へ流れていきます。夷までは保津川を下る船は「保津川下り」という半ば観光業のため用いられる船しか通りませんが、その昔この辺りを通っていたのは、丹波諸地方から切り出された材木を満載した船だったそうです。そのため、今でも中之島を挟んで嵐山や嵯峨天龍寺ら辺には木材を取り扱う店が多いそうです。昔の嵐山は観光ではなく、木材を都へ供給する地点として栄えていたようですね。

 さて、保津川観光を語る上で忘れては行けないのが「トロッコ嵯峨野観光線」です。ほら、ここでも中央と右の写真に写っているでしょう? この時期だと紅葉のライトアップとかが保津川のすぐ傍で為されていてとても綺麗だとか。嵐山→馬堀で片道600円かかりますが、それだけ払う価値はありますし、一度馬堀に着けばJRに乗って割安で家に帰ることも出来ます。この辺にお出でになったら是非一度ご利用になっては如何かと。途中の駅で降りたら保津川の両岸を散策できますし、結構面白いと思いますよ。

 またトンネルですか。やっぱ保津峡ってトンネル多いですね。まぁ短いから問題ないんですけどね。さて話題が変わりますが、中央の写真をご覧下さい。何駅か分かります? ――答えは山陰本線の「保津峡駅」です。なんでわざわざここで取り上げるかって? 答えは簡単――ではありませんな。なんでもこの駅は日本の鉄道の駅で唯一橋の上に作られた駅だそうです。確かにそんな駅って他に聞き覚えがありませんよね。まぁ一度ここまで行ってみるのも一興では? と言いつつ、私自身は所謂「鉄ヲタ」ではないので、詳しいことは断言しかねますが・・・。無責任とか言わないでくださいね。昔鉄道研究会の同級生に教えてもらった記憶を基に話しているだけなので。詳しくは、お近くの「鉄ヲタ」まで。としか言えませんよ。


 トンネルを後にして山道へ進撃すると・・・お待ちかねのヘアピンカーブ! 人里離れたとこならどこでも出てきますねぇ、この厄介者は。左の写真をご覧下さい。杉の木立の向こうにうっすらとガードレールらしきものが見えてるでしょう? 今からこれを登ると想うとぞっとしますね・・・。そして幾つかカーブを越えると、町中では決してみられないような美しい景色が辺りに広がっています。電線の鉄塔があんな所に。山の風景も素晴らしいの一言に尽きますな。町中で汚れきった心を洗っているかのような気分です。――別に町中を非難する訳ではありませんが、学校にいるとどうしても成績のこととかうるさく言われるんでね・・・。


 山道をひたすら進むと、競輪の人々を発見。マウンテンバイクって軽いんだろ〜な〜。やっぱり普通の自転車で行くとこの坂道はしんどいですよ。・・・おっと、こんな所で見事な紅葉を発見! 記念に撮影と。ああ早くこの坂道終わんないかな・・・。いい加減だるくなってきました。時計も既に9時を指しています。坂道に時間喰い過ぎですね。しかしその時木立の隙間から・・・

 中央の写真をご覧下さい。田圃です! 柚の里・水尾に到着です! やった〜! 道半ばながらかなり感激しました。いや、今まで久しく民家を見てなかったんでね・・・。さてこの集落、かなりの急傾斜に建てられています。中央の写真を見ても分かるように棚田がかなりあからさまに散開しています。更に集落の中央を貫く街道にしてもかなりの急傾斜なので、停車してある車が徐々にずり落ちてきます。いや、冗談ではありません。本当に一回目撃しましたから。と言っても、あくまで道の中央に停めてある車が少しずつずり落ちてくるだけですけどね・・・。


 さすが「柚の里」と言うだけあって、周り中で柚が栽培されています。石垣で庭の周りに垣根を巡らせ、その中に柚を栽培するというのが一般型のようですね。なお、集落の中央には農協があります。恐らく住民は主にこの辺で情報交換しているのではないかと思われますね。ここの主な産品は柚と米に尽きますな。


 左の写真に見える見事な紅葉を後にして、再び山の中へ。杉の木立の間を細い道が獲物を狙う蛇さながらに駆け抜けます。所々にこのように小川もありますよ。これが桂川の最初の一滴の一つかと考えると・・・何とも・・・。


 最早峠道どころか、登山道の観さえしてくる訳ですが、それでも舗装はされているので、鼻歌を口ずさみながら自転車を勧めて行きます。すると、神明峠制覇!! この峠の読みについては「ジンミョウ」と呼ぶ説と「シンメイ」と呼ぶ説と2説あるようです。正確なことは分かりません。個人的には「ジンミョウ峠」と読む方が格好いい気がしますがね・・・。この峠で道は二手に分かれます。右へ行けば樒原・越畑。左は――どうやら亀岡に繋がってるようです。とはいえ封鎖されていて使い物になりませんね。後に樒原の人と話して知ったことなのですが、どうやら道の舗装状態が最悪で、車や自転車で行くには危険すぎるのでゲートで封鎖されているようです。当然封鎖されていない右の道をとって進みます。すると峠と言いつつまだまだ登り道は続きます。


 オイオイ・・・。まだ登り道じゃねぇか。峠とか嘘っぱちかよ。ついでに左の写真を見ると、道の右側に何か落ちてますね。本当にこの道大丈夫なんですか? そろそろ心配になってきました。中央の写真に見るように斜面も大分えぐれてます。そして、左の写真に写った有刺鉄線には何の意味があるのでしょう? 気休めにさえなっていないのは気のせいでしょうか?


 有刺鉄線さえなくなってきた・・・。危なすぎだろ・・・。しかし景色は相変わらず絶景。危ない山道に限って素晴らしい絶景が多いのは何故でしょうかね? お、そろそろ道が下り坂になってきましたよ。


 道はアップダウンを繰り返し、ミラーのある所で下り坂に転じます。・・・そろそろガードレールぐらいつけましょうよ。いくらなんでもケチりすぎですよ。最早舗装されてなきゃこれ単なる獣道じゃないですか! でも、舗装だけは何故かクォリティ高いんですね〜・・・。


 ガードレールをケチってる国土交通省と京都府にひとしきり悪態を吐き終わると、木立の向こうに田圃が――鎧田の里・樒原到着です! 鎧田って言うのは、所謂棚田のことで、武士の鎧のように段々になっていることから鎧田といわれるそうな。古くは「山城の原の鎧田きてみれば,かぶとの森や弓かけの松」とも歌われていたそうです。何と山腹に約800枚も広がってるそうです。集落の大体の造りについては水尾とほぼ同じ。強いて言えば茅葺屋根が多いってぐらいですかね。やはりここでも庭を石の垣根で囲ってる家が多いですね。因みに、水尾でかなり酷かった傾斜はこの辺りからはだいぶマシになります。絶好のサイクリングコースですね。・・・まぁわざわざ自転車漕ぐためにここまで出てくる人が少ないというのが根本的な問題なんですけどね。


 少し山の中に入りますが・・・その後すぐに集落がまた現れます。小川を渡ったすぐ後、神社が現れます。原神社と言うそうです。この先から辺り一面棚田――樒原流に言うと「鎧田」――が広がります。そしてここからだと、本来700〜900m級の筈の山々が随分低く見えます。偏に樒原の標高が高いからですね。あの山々の裾野が麓まで大分伸びていると言えば納得していただけますか?


 原神社から少し行った所でバイクに乗ったおじさんと少し世間話。神明峠のことはこの人に教えてもらいました。何でもこの人今から美山に行くとか。やっぱりバイクは自転車より性能良いんですね〜。改めて実感します。でも、やっぱり自転車の方が好みですね。単にバイクの免許持ってないとかそういうのじゃなくて、じっくりと周りを見ながら走れるって辺りが良いんですよ。さて、このおじさんによるともうこの後は大して傾斜も無いそうな。「ようこそ」との看板を掲げた大きな樽がある小屋の横を通り、鎧田の中を進むとしましょう。


 左の写真をご覧下さい。ハロウィンの置きみやげです。ハロウィンて言うのは、元はアイルランドの“サウィン・フェシュ”ていう夏の終わりの祭りで、後にキリスト教が流入すると、地元の“悪霊”達がこの日だけ人間に影響力を振るえる日に変わり、やがてそこから子供達が仮装して“悪霊”の形をするようになったとか。・・・関係ありませんね。すいません。さて、閑話休題して道を北上していきましょう。今度は殆ど山ん中には入りません。すぐに鎧田が現れます。


http://www.mario-k.net/kyoto/shaji/129.htmlより もうお判りになりましたよね・・・。蕎麦の里・越畑です! 早くも――て言っても、もう10時だからそうも言えないな――当面の目標クリアです。越畑は樒原同様棚田がとっても多い場所ですね。で、地理的にも樒原と隣接していて、普通の人は樒原・越畑をワンセットにする傾向が強いんですけど、その違いは何でしょう? ズバリ、蕎麦ですね。ここでは、蕎麦が結構たくさん栽培されておりまして、大体夏〜秋にかけて咲くみたいです。管理人が行ったのは冬の初頭だったので、少し遅きに失した観がございますが、一応“京都の奥座敷”というページにある写真を借りてきましたので、是非ご覧下さい。で、何故こんなところで蕎麦がと言う疑問ですが、蕎麦は古来荒地でも育つ救荒作物として知られ、5世紀頃から既に導入された穀物らしいんで、個人的な考えとしては、まだ棚田などの技術が開発されず、ここで米が栽培できなかった頃に、ここの住民が導入したのが真相なのでは、と思いますな。まぁ今度調べてみましょう。因みに、この辺の名物として、松原蕎麦という天ぷら蕎麦があるそうです。地元の野菜をふんだんに使った美味しい蕎麦だそうです。管理人は喰いそびれましたが、また機会があれば皆さんもどうぞ。

 またまた話が脇道に逸れてしまいましたね。ここいらで閑話休題といたしましょう。市立愛宕小・中学校を通過した辺りから再び棚田があちこちに現れるようになります。ここで小・中学校となっているのは、他でもない、過疎の影響です。2007年時点でこの学校に在籍しているのは小学生8人、中学生5人の計13人。私が通ってた小学校でも1クラス30人ありましたから、過疎化の程度が知れるというものです。聞く所によると、学芸会とかも、生徒全員が一丸となってやるそうですね。やっぱりこういう里から人が消えてはダメだと思うのは、私だけでしょうか・・・。まぁ、このまま話を続けましょう。


 そろそろ下り坂になってきましたね。しかも結構傾斜つき始めてるのが、棚田の具合で分かるという・・・。そしてこの辺りが越畑の中心部。ほら、「越畑」の標識が見えてきたでしょう? この辺りで六丁峠から延々続いた「異常気象時通行規制区間」も終了します。でも、思えばここら辺も久多同様危ないですよね。大雪とかで「通行規制」喰らったらそれこそ陸の孤島になる訳です。まぁ携帯の電波が通じるだけマシですかね。多分ここらでは“Docomo”のシェアが極端に高いと思いますよ。

 おっと、道がここで二手に分かれてます。さてはてどっちに行ったものか。迷ってる内に、さっき樒原で会ったバイクのおじさんが私を追い越していきます。手を振ってくださいました。当然こっちも手を振り返す訳で。またいつかどこかでお会いできると良いですね。まぁ仕方ないし何となく左の道へ・・・。そう、これが大失敗でした。とてつもない急傾斜を滑り落ちていくと・・・何か山ん中来ちゃったよ。かなりまずい予感が。しかしここで私を助けてくれたのが国道477号線です。京北〜八木へ通じるあの国道です。左へ行けば八木町だそうで。ああ危ない。当然道を右にとって上り坂をトボトボと登っていきます。


 無駄なアップダウンほど人を疲弊させるものは少ないですねぇ。いや、明らかに自業自得なんですけど・・・。杉の木立の間を縫ってヒィヒィ言いながら登っていくと、標識には「八木町神吉」。ああ、もう山城国ともおさらばですねぇ。結構山城国も奥が深かったですねぇ。しかしこれで山城国をコンプリート出来ました。思えば長かった・・・。家に近いはずの北部ほど制圧に時間がかかりましたが、これは峠道を異常に恐れる親のせいですかね・・・。

 さて、神吉に出てきて一番最初に目にするのが廻池。造られたのは偏に灌漑用水確保が目的のようです。何と84万m3もの水をためることができるとのことなのですが、冬場はやはり、広沢池同様水抜きしているものと見え、完全に干上がってました。


 そろそろ標識が見えてきました。「南丹市」。合併してみっともない名前になっちゃいましたね・・・。じゃぁさっきの標識は・・・? よく判らんものです。ほら、まだ11月初頭とあって水抜き作業がまだ行われていますよ。しかし、水さえあれば右の写真の中島もさぞかし水面に映えたでしょうにねぇ。


 何か水抜き去れた池ってみっともないですね。まぁそれは置いといて、神吉を北上するとしましょう。棚田の所々に紅葉があってとても綺麗です。もうちょっと行く時期遅らしたらさぞかし映えていたでしょう。のどかな田園風景が延々と広がっています。


 それにしても、のどかな良い場所ですねぇ。何か空気が新鮮というか・・・。それでいて道の状態も良好。さすがは国道477号線。とか言ってる内に早くも分岐地点。右へ行くと国道477号線に乗って京北へ、直進すると最近南丹市に併合された日吉町まで行けます。どうせなら行ける所まで行っちゃいましょう。どうせその内また家に閉じこめられちゃいますしね。国道477号線と分かれても、神吉はまだまだ続きます。本当に良い所ですよ。交通の便がおっそろしく悪いのが玉に瑕ですけどね。道は絶えず北に延びていきます。


 合縁橋だそうです。この橋の袂で祈ると恋愛でも成就するんでしょうか? いや、全然根拠ないんで無視してくださって結構ですよ。それにしても、まだ秋と言うんでしょうか。田圃に鋸草が映えますねぇ。ふと左手に目を向けると、やはりここが高地であることを実感。樒原同様ここでも山が低く見えます。理由はさっき説明した通り。


 右手には山がすぐ傍まで迫ってますね。斜面に家が何軒か建ってます。そして家々を取り巻くように棚田が。左手には一面棚田。そして小高い丘が多分八木方面では絶壁となって聳えてることでしょう。本当にのどかな田園風景です。いささかしつこくなってきましたね。そうこう言ってる内にまた山道が見えてきました。神吉ともそろそろお別れです。また来てみたいですね。本当に良い所ですよ(しつこいって)。


 坂道が急激に落ち込んで、神吉を後にしていきます。ここではペダルを漕がなくても凄くスピードが出ます。すんごく気持ちいいです。木々の間を晴天の下、鼻歌交じりで駆け抜けていきます。そうこうしてる内に標識が現れました。「府民の森ひよし」だそうです。やっぱ日吉って田舎ですねぇ。いや、悪い意味で言ってるんじゃなくて。一方道の右手には深そうな川が・・・。


 赤い見事な鉄橋がかかるほどに、川幅は次第に広がり・・・正体は、日吉町の町おこしに一役買っているあのダム湖――天若湖です! とか言っても地元民じゃないと知らないだろうな〜、と言うのが実情なんで、軽く説明しておきましょう。天若湖ていうのは、桂川が宇津峡経由で京北から日吉に出てきてすぐのところで、世木ダムと日吉ダムに仕切られたことによってできたダム湖です。え、説明になってないって? 判りました。説明になるかどうかは知りませんが、何とかその来歴でも語ってみましょう。


 中央の写真をご覧下さい、面白い山腹ですね・・・。いや、説明を続けましょうか。そもそもの興りは、1953年、台風13号が近畿地方に襲来し、淀川水系に洪水が発生し、甚大な被害をもたらしたことに始まります。こりゃイカンと考えた国と地方自治体は淀川水系全体の治水を考えるようになります。この計画に基づいて作られたのが、大津南郷の瀬田川洗堰や宇治の天ヶ瀬ダム、伊賀名張の高山ダムや奈良県旧宇陀市の室生ダムといったダムの数々。んで、その後も引き続き淀川水系にダムが造られていく訳ですが、遂に1961年、桂川に「淀川水系改訂基本計画」に基づいてダム建設が計画される訳です。そもそも桂川は保津峡や嵐山という風光明媚な観光地を数多く抱える大河川という訳なのですが、治水の観点からはいささか問題がありました。例えば大雨が降ったとしましょう。すると山に降った雨水は次第に集まって船井郡を通って亀岡盆地へ流れていきますよね。でも、亀岡盆地から京都盆地に抜ける保津峡は先程も見た通り、川幅は決して広くありません。で、結果どうなるか? 早い話亀岡盆地に洪水であふれ出た水が溜まっちゃいまして、巨大な水溜まりみたいになってしまうんです。川の両岸に堤防を築いてもこればかりはどうしようもありませんしね〜。そこで人口増加に伴って増える水の需要の解決毎、一挙両得で解決しようと言う訳になりまして、日吉ダムがめでたく誕生した訳です。


 で、どうせダム造るんなら町興しもしようって話になりまして、日吉ダムのすぐ北に「スプリングひよし」っていう複合温泉施設を造り、温泉・プール・体育館に加え、有り余る広大な土地を使って芝生のキャンプ地だとか公園まで造っちゃった訳です。ちょうど右下にその写真がありますね。で、その近くに府民の森――ほら、中央の写真にその入り口が写ってるでしょ?――だとか郷土資料館だとかいう公共の設備をおまけに造った訳です。

 ちょうど場所が良かったんでしょう、篠山街道こと国道372号線や酷道として名高い477号線を通るドライヴァーたちが退屈しのぎによってくるようになったんですよ。結果は大当たり。意地悪くいえば山中の寒村だったこの辺りはあっという間に一大レジャースポットに生まれ変わった訳です。ダムの成功例の一つと言えるでしょうね。本当にどこかの某アスワン・ハイダムとは大違いですね。


 ほらほら、さっき説明していた郷土資料館だのキャンプ地だのが見えてきましたよ。でも、こんなダムのすぐ近くにいろいろ造って大丈夫なんですかね? ダムが決壊したら大変なのは気のせいでしょうか? 明らかにまずい気がしますが・・・。


 因みに左の写真に写ってるのが日吉ダム。立派なダムなのは確かですね。でもそろそろ天若湖ともお別れですね。日吉の道を北上していくとしましょう。暫く進むと天稚神社が見えてきました。御祭神は天稚彦命で、古文書によれば、向日之巌上に神霊光臨あり、夜毎に大光を放つたので、村老が集まり、神庭を設け、祓ひ清め、神楽を奏したところ、「吾は往古此国を発したる天稚彦なり、吾を祭らば年穀豊饒にして荘内久しく保つであらう。吾を鎮祭する処には世に久しき木を生ず」と神託あり、果たして一夜に杉三本生じた事がその由来だそうです。


 このまま桂川沿いに船岡経由で園部に抜けて代えるのも一つだったんですが、未だ時計は10時半。折角ここまで来たんですから、行ける所まで行くとしましょう。天稚神社の近くで右折し、左の写真の標識にもあるように日吉市街、殿田方面に向かいます。再び一面に田圃が広がります。桂川を渡って殿田トンネルを抜けると殿田はすぐそこ。


 トンネルを抜けるとそこは・・・
何ぃ〜、市街地だとぉ〜?

 すいません、取り乱しましたな。何ともはやびっくりしました。枚方の私市レベルの密度で家が林立しています。更に線路! 山陰本線と合流の模様です。駅もあります。日吉駅ですね。何というか、所謂「逆カルチャーショック」というヤツでしょうか。普通だったらこんなに動揺しないんですがね。今まで良く言えば桃源郷じみた、悪く言えば辺鄙な田舎道ばっかり走っていたのが、一気に現実に引きずり戻されたというか。


 動揺を隠し切れぬまま北に進撃します。何かさっきカラオケボックスとか見えた気が・・・。まぁこれだけ家があればそのぐらいのニーズはありますか。しかしまぁ都会というかねぇ・・・。こんな事を考えつつ暫く行くと、道は徐々に元の田舎道へと戻っていきます。おや、米の倉庫でしょうか? 中央の写真をご覧下さい。「自然の作る日吉米」だそうです。最近中国の汚染米とかが騒がれてますからねぇ。安心して食べられる米をお願いしますよ。ついでに右の写真に見える建物は、なんと新・田舎暮らしのための陶芸・書道・気功・ヨガ教室だとか。日吉を田舎となめてかかっちゃダメですねぇ。


 自動車の教習所に鍼灸大学・・・本当にここは山の中の集落なんでしょうか? 何ともはや選り取り緑ですね。


 老人ホームはぎの里。立派ですねぇ。本当にここが今日と北辺の寒村(日吉町在住の皆さん、ごめんなさい)とは信じがたいですな。本当に何もかもそろってます。こんな山奥なのに・・・。そうこう言いつつも、暫く北に行くとまた田園風景が・・・。何かこっちの方が和みますよ。


 そろそろ胡麻です。地図を見る限り、分水嶺がこの辺りにある筈なんですが・・・見渡す限り平原。一体どうなってるんでしょ。しかしそれを置くとしても、田園風景に鋸草はとても映えます。おっと、中央の写真をご覧下さい。「日吉を拓く森」だそうです。何かネーミングが恰好良い。ここから上り坂。そろそろ分水嶺の筈ですが・・・。しかし右の写真の辺りで下り坂に。まさかここが分水嶺・・・な訳ないよなぁ。


 仕方ないし、胡麻駅まで行って辺りの地図でも確認しましょう。お、ソフトクリームが売ってますよ。ちょっと季節外れな気がしないでもないですが・・・なんと、胡麻アイス!? 完全に町興し用ですな。しかしとんとイメージがつかぬ。まぁ、経験第一って事で試食と行きましょう。値段は――嬉しいことに、200円とお手ごろ価格。中央の写真のが、件の胡麻アイスです。いただきまーす。う〜む、食べてみると結構美味しいですね。ついでにお土産も買っときましょう。計1000円弱。これまたお手頃。さてはて、土産も買い、おやつも食べたことですから動くとしましょう。胡麻は胡麻で、田圃と住宅の調和がとれた良いとこですよ。


 田園風景が止めどなく・・・。良い所ですね〜。空気も新鮮です。竹藪も良し。おっと、右の写真のところでまた下り坂に・・・。もしや分水嶺? だとしたら何か標識建てて欲しいですね・・・。


 分水嶺探しはひとまず諦め、下山へ行きましょう。ああ、この辺り道がややこしい・・・。中央の写真のような低木は確か飛鳥でも似たようなものを見た気が。そして右の写真に写ってるのはひまわり? ひまわりって夏に花咲くのでは? 何か記憶が錯綜してます。


 農園みたいなところの横を通り、山陰本線の線路の上を横切ります。信じられます? この線路は円町駅や京都駅まで続いてるんですよ!? そうこう考えてる内に道路標識が。左に行けば胡麻駅へ逆戻り、右に行けば綾部や国道27号線へ出られるそうです。綾部かぁ、行ってみたい気もしますが、行ったら絶対帰ってこられませんよねぇ。そしてもう日本海側ですか。分水嶺は一体どこに・・・。ん? 標識の下になにやら看板らしきものが・・・。


 一面に広がる畑の中、建っていた標識は・・・何と、

水分の道

 え〜、これが分水嶺? 道って事は今まで通ってきたのも分水嶺? まぁともかく読んでみましょう。「胡麻分水界 海抜210m」。何とも気が抜ける話ですね。これが分水? の字はどこへ逃げたっていうんだ? しかし後で聞いた所によると、これには深ぁ〜い訳が。

 こういう分水ならぬ分水界は地理用語で「谷中分水界」と呼ばれておりまして、なんでも教育上、地形研究上注目すべき地形とかいう理由で京都府の“Red data book”にも登録されてます。

その昔、桂川は北流し、胡麻平原を通って由良川に合流していたという。 それによると、今いる場所、即ちJR山陰本線胡麻駅と下山駅の間には、由良川水系の畑郷川と桂川水系の胡麻川とに分かれて流下する幅700mもの平坦な「胡麻平原」があり、これが所謂「谷中分水界」にあたるそうです。ここから南流する胡麻川側では斜面は平坦でゆるく南へ傾斜していますが、一方で由良川水系の畑郷川沿いでは比高30mもの急崖を形成しています。このような特徴は河川争奪による流路変更が生じたことを示すそうです。河川争奪? 何すかそれ? 私の頭の中でも“?”マークのダンスが激しく繰り広げられております。無理を承知で非常に荒っぽく纏めると、早い話、この広い段丘面は何と、桂川(大堰川や田原川、園部川などを併せたもの)がかつて北流し、胡麻を経て由良川に合流していた当時の流路跡が残されたものだというのです。なんでもかつては、丹波高地のほとんどは由良川から加古川を経由して太平洋に注ぐ水系に属していたそうなんですね。しかし、殿田付近で亀岡側から侵食を進めてきた河川によって争奪され、亀岡盆地に流れこむようになったというんです。これは約30万年前頃に発生したと考えられ、亀岡断層などの活動により亀岡側の斜面が急勾配になって侵食力が増大したためであるといいます。したがって、船岡峡谷ではかつて園部川が北流していたのですが、今では大堰川がその流路をたどって逆に南流しているのというのです。また、亀岡盆地の本格的な沈降もこの頃以降に生じたそうな。しかしこんな珍しい「谷中分水界」も現在では、分水界のほぼ中央部に道路が走り、酪農や野菜づくりが盛んに行われ、京都へ通勤する人々の住宅が徐々に増えつつあるそうで、破壊が進んでいる部分も多いとのことです。ついでですから、30万年前の胡麻平原周辺の地図を作製しときました。便宜上現在の地名やら旧国名(やっぱ要らないっすよね〜)やら付けときました。桂川が由良川に流れ込む流路は太線にしといたのでお判りいただけるかと。


 「水分の道」を振り返ってみると・・・確かに「平原」です。分水界だというのに、山があんなに遠い。理由は判ってもやっぱりねぇ。でも、理由が判るとちょっとここにも歴史を感じるように思えますよね。・・・私だけですか? 激しく話題が逸れてしまいました。ここいらで閑話休題といたしましょう。胡麻平原の分水界から北へ、遂に由良川流域の地に足を踏み入れていきます。とはいえ道はまだちょいとばかり上り坂。あの看板間違ってるんですかね。


 ・・・が、左の写真に写ってる神社の辺りから道は下り坂になり、どんどんスピードが出ます。爽快っすよ〜。と、急降下の途中で石碑を発見。なになに・・・「明日を拓く道」? うひょ〜、格好いいですねぇ。胡麻平原は空気もセンスもいいと湖です。そして、平原はまだまだ続く。

 (地名の由来とか追加)


 何か昔、亀岡でも同じものを見た気が・・・。鉄塔です。やっぱ田舎ってこういうものが田圃のど真ん中にいっぱい立ってるんですね〜。さらに、牛舎! おいち〜丹波牛がいっぱいいます。乳牛だったら食えませんけど。中央の写真に写ってるのは乳牛でしょうか? 肉牛でしょうか? 肉牛ならもしかしたらあのどれかを12月23日の打ち上げで口にしたかも知れません。果たしてどうなんでしょう? あ、後丑年の時にはこの写真使えますね。気に入ったらダウンロードしてくださって構いませんよ。・・・と、あれこれ考えてる内に早くも高屋川に到着。何かこうして見ると、4月にいった由良川と全然変わりませんね。さすが同じ河口に注いでるというか・・・。


 因みに、高屋川沿いに走ってる今の道は丹越国道すなわち国道27号線といって、南は山陰街道の要衝丹波町から、北は和知経由で若狭・敦賀方面に伸びてる道ですね。んで、今出てきた所は下山の少しばかり南です。ほら、右の写真に赤い鉄橋写ってるでしょ? あれがJR山陰本線で、西岸に渡ってすぐのところに下山駅があります。・・・木立に隠れて手見えませんがね。そして、高屋川は丹越国道沿いに北流して和知で由良川に合流します。JRの和知駅は下山駅の1つ向こうだから、意外と近いんですね。まぁ今回は行く方向が違うので諦めますが。もう12時だから余り余裕が・・・。

 ということで丹越国道を丹波町に向け南下していきます。交通の要衝和知を抑えられなかったのは痛いですが、山陰街道との連絡をつける方が重要です。・・・すいません、意味不明ですね。しかしこんなところに119の派出所作って意味あるんですかね? 山と川しかないのに「火事、救急、出動は119」て。依頼来ても現場まで間に合うんですかね? それ以前に依頼来るんでしょうか? こんな事を考えながら走ってると、お、景色が開けてきましたよ。田圃と山のパラダイスです。田園風景これにありって感じです。


 と、南下する道中現れたのは・・・どこかで見たようなキャラクター!? 


 いや、案山子ですね。「みんな交通安全を願っています」とのことです。確かにこの国道車がかなりスピード出しますしねぇ。それにしても・・・左から判るのだけ挙げていっても・・・普通のお百姓さんと飼い犬、マツケン(?)、・・・馬ですかね? それにしてもあのポーズは一体? ・・・中央の写真の人々は知りませんなぁ。芸人か何かですかね? んで、メイとトトロ。うぉ、カ−ル君じゃないですか!? 更に下段に移って、ん〜、左の写真の人々は誰かわからん。中央の写真に写ってるのは牛に乗ったバカボンに普通の案山子。いったい何の集まりでしょう? 後で亀岡在住の知人に聞いた所では、案山子のコンテストか何かだというのですが・・・。う〜む。箕面とは違う意味でびっくりしましたね。さてさて閑話休題、案山子の前から再スタート! 右手からは高屋川に支流が注いできています。瑞穂町辺りから来てる川ですかね。


 更に南下すると道路標識が。左へ行くと先程も通った日吉町。直進南下すると丹波町。目指すは丹波町です。しかしこの辺りにはひたすら田圃・・・。何か日本の原風景を見ている気分に・・・。こういうのに郷愁を覚えるのは私だけなんですかね? そして多分ここの田圃の米を集めているであろう工場が登場。「石井食品」だそうな。こういう国産米を守って行かなきゃ、「死ぬほど美味しい」調味料メタミドホスてんこ盛りの中国米を大量に喰う羽目になりかねませんよ。


 お、限りなく広がる田圃の向こうに市街地が見えてきましたよ。「創味食品工業丹波工場」の標識の向こうから市街地が開けていきます。それにしてもこの辺さっきの石井食品といい、食品工場多いですねぇ。道路標識の向こうからはもう町の中へ。それにしても、もう山陰街道の標識が出るとは・・・。早いですねぇ。


 なんだかんだいってる間にもう山陰街道到着。そうか、丹波町は山陰街道沿いに発展した集落でしたね。ここが丹越国道の終点蒲生です。この周りには、山陰街道最大の補給拠点の一つ「やまがた屋」だとか蒲生野中学校、それに京丹波町役場など公共施設のオンパレード!


 因みに蒲生から西に行けば道路標識によると「福知山38km、鳥取158km」。丹波町出発なら鳥取までたった丸1日漕ぐだけ。案外近いもんです。でも、京は帰りのこととか考えないとまずいので南へ。もう12時半なんでね。で、南の方に行く訳ですが・・・都会ですね〜。第2次逆カルチャーショックとはいいませんが。山がすぐ傍に迫ってきてさえ田舎ったら大津市膳所ぐらいのにぎわい具合。


 そろそろ丹波町市街地も先細りに。看板には「また来てね、ありがとう」。今度はここを福知山や綾部、和知への足がかりにしたい所です。しかしこの看板の後に・・・道の駅! 建てる所間違えてますよね。因みに右の写真に写ってる山の名は「美女山」。何か由来あるんでしょうか?


 しかし名残惜しいもので、北の前哨基地丹波町市街地もこれでお別れです。さよなら〜。またいつか来ますよ〜。道は次第に観音峠へ。・・・とはいえ田園風景はまだまだ健在。


 前のように道の両側にはひたすら田園風景。そんな田圃の真っ只中を山陰街道は京都に向かう。徐々に山道を登り、分水嶺、観音峠へ。今度はちゃんとした分水名ので御安心下さい。気が抜けることはないです。そんなにきつい山道という訳でもないんですけどね・・・。


 ヘアピンカーブじゃないから、楽勝、楽勝! カーブなんてお手の物。――車さえ来なければですよ。ヒューン! ヒューン! ここ車多いですね。さすが山陰街道・・・。


 紅葉が・・・。冬は本当にもうすぐそこまで来ています。最近暖冬多いんでね、そろそろしっかり雪降って欲しいとこですが、そうすると今度は家に閉じこめられてしまう。やはり「あちらを立てればこちらが立たぬ」というヤツですかね。・・・こんな事考えてるともう観音峠到着です。早いですね〜。ここを越えればもう太平洋側の淀川水系。さらば由良川水系、さらば裏日本! では、いざトンネルへ。ヒューン! ヒューン! トンネルを抜けるとそこは・・・南丹市園部町です!! 太平洋側に帰ってきました! ああ懐かしや。


 何か早速山が変なことになってますね。荒地というかこれはステップ草原だのサバンナだのの光景では? まぁそれは置いといて、下り道を爆走です。暫く下ると右手に園部の盆地が見えてきましたよ。しかし右の写真を見ても判るように、この辺では尾根が低く見えますね〜。この尾根のところでカーブを曲がり、


 田圃の脇を抜けると、園部の市街地に到着です。こうして見ると結構都会ですねぇ。この町もまた、山陰街道沿いに市街地が発展してできた町。その昔から本道沿いには丹波町等の由良川流域に続き、本梅川を遡っては丹波篠山、南東に下れば亀岡・京都へ続く道を葯するこの地は古来要衝の地として幾度も争奪の対象となったといいます。


 市街地のすぐ脇を悠然と流れる本梅川。この流れに沿って道を京都方面へ採ります。ところどころ風流な道は徐々に園部の中枢部に近付きます。そして来たのが園部本町。ここは古来より園部の官庁街で、古くは園部城から新しくは南丹市園部支局へと続きます。官庁街とは言え、山がすぐそこに見えてるあたりが良いですね。


 せっかく城があるんで、ちょっと本道から脇道へ逸れます。一応私は歴史部なんでね、史跡とかは無性に見たくなるんですよ。地図を片手に西へ進んで最初に見つけたのが、左写真に写っている博物館。写真の取り方が下手なのは、偏に道が狭くてバックできないから。何? 言い訳言うなって? いや、そう言うんなら、御自分で見に行かれては? 滅茶苦茶狭いですよ。しかし何でキツツキが?

 話が逸れてしまいましたので、閑話休題。そもそもこの園部城はどんな城だったか? 多少語らせていただきますが御了承の程を。そもそもここ園部、その昔には波多野氏の勢力下に置かれ、無数の山城が築かれていたと言います。そしてこの城には波多野氏の家臣荒木山城守氏綱が配されていました。しかし戦国時代も末期の1578年4月10日、かねてより丹波国にその魔手を伸ばしていた明智光秀は滝川一益、丹羽長秀らの援軍を加えてこの城を包囲、水の手を切ってこの城を奪いました。この光秀は4年後、本能寺の変を起こします。そしてその後、山崎の合戦で光秀が敗死し、丹波は羽柴(豊臣)秀吉のものとなります。しかし彼の統一した天下もすぐに彼の死とそれに続く関ヶ原の合戦で潰え、天下は徳川家のものとなります。そんな中、1619年、もと但馬出石の領主だった小出吉親が2万6000石で、丹波は園部の地に転封されます。この時、荒木氏の城は再建され、今ある園部城の原型となります。そして小出氏十代英尚の頃に戊辰戦争を迎えます。その時には、幕府優勢の際はこの城経由で天皇を安芸・長州方面に逃そうという計画があったとも言います。その後この城は明治の城割の危機にさらされる訳ですが、地元の府立園部高校として存続し、今に至ります。

 なお、波多野氏の子孫は今日もかなり残っているようで、私の知り合いにもその子孫が一人いますね。本筋とは無関係ですが・・・。様々のところで大いにお世話になった人なので。一応感謝の意も込めてここに記録しておきます。完全に私事ですがね。


 城の周りには見事な紅葉が。そして城の大手門に行くと、「京都府立園部高校」の文字が。さっきも言いましたが、園部城は今高校として生き続けているんです。城の中に通学するのってどんな気分なんでしょう? ちょっと興味がありますね。


 そろそろ本道に戻りましょう。大分寄り道したものです。しかし左写真の山は何とも変な形ですねぇ。そんなことを言いながら山陰街道へ。毘沙門天の横を抜け、南東に進みます。そしてこの線路は・・・先程行った下山方面へと通じていた山陰本線です。日吉、胡麻、下山でも見た通りです。この電車を使って通学してくる人は、私の学校にもたくさんいますね。丹波国の大動脈という所でしょうか。


 線路を通過し、園部の市街地を後にします。園部駅は市街地から少し外れた天神山の麓にありまして、今まで街道沿いに流れていた本梅川もこの辺りで何本かの川と合流し、園部川と名を変えています。この川はやがて桂川と合流する訳ですが、駅の向こう岸には葬儀屋・・・。あんましお世話になりたい所ではありませんね。


 ん、さっき葬儀屋の右上に何か見えた気が・・・。改めて見てみると山の斜面に「そのべ」の文字が! 木立を上手く植えたんですね。思わず吹き出してしまいました。きっと駅前だから植えられたんでしょう。何か愛嬌あるというか、面白いというか・・・。皆さんも園部に来たら是非記念撮影をしてみては? ついでに園部駅にも足を伸ばします。しかし、何でこんな町の外れに建てられたんでしょう? よくわからんものです。またまた閑話休題し、山陰街道を進みます。駅の向こうからは右写真のような田園風景。落ち着きますよね。


 園部を後に、八木町北部の吉富に入ります。ここ吉富は八木からも多少独立した観がありますね。インフラも整ってますし。まぁ今やここは園部と同じ南丹市ですが、私は南丹市というくくりが今ひとつピンと来ないので、昔の名で呼ぶことにしています。どうぞ御容赦の程を。


 この辺りでは山陰街道が田園風景を二分してひたすら京都に向かって急いでいます。ちょっとした切り通しを越えると今度は八木の集落へ出ます。


 何かこれだけ見ると、すごい峠道って感じがしますけど、完全に見かけ倒し。山を迂回するのが面倒だから作られた切り通しです。切り通しの向こうからは八木の市街地。といってもまだ感じのいい田舎ですけどね。


 油菜の茂みの向こうには桂川が少し見えてますね。桂川の向こう岸は屋賀といってその昔丹波国府が置かれた場所だそうです。関係はありませんが、私の知人も一人屋賀に住んでますね。


 八木を後に暫く西へ進むと、突如、耳を聾せんばかりのゴォーッという轟音が! いつぞや話しましたよね、この前到達した最果ての地大堰ダムです。今日は良く晴れてて、対岸もよく見ることができます。今は・・・2時20分。もう旅も終わりか・・・何か物足りないですよね。


 いずれにせよ、遂に亀岡まで戻ってきた訳です。街道沿いには「千代川」という名がちらほらと現れ始めます。左写真は千代川浄水場。・・・千代川といえば、この前行った時撮り損ねた写真がありましたよね。それが右写真。


 しかし・・・ものすごく邪魔なフェンスができたせいで、前ほど良い場所じゃなくなってます。ところ構わず「安全」策を講じるのは本当にどうかと思いますね。前はドラマにも移せそうないい所だったのに。雪が降り積もった冬の真夜中、寝台列車がここを駆け抜けていく・・・絵になりそうな光景だと思ったんですがねぇ。いったん千代川駅に立ち寄っておやつを補給。そして只今2時半。真っ直ぐ帰るべきか、帰らざるべきか・・・。そして運命の決断は下された!


 「全軍能勢へ!」総大将の号令一下、後続の精鋭達は鎧を煌めかせながら西へ進撃した。(完全に妄想です。適当に聞き流してください。) 目指すは大阪府北端の秘境能勢。千代川駅の名の由来である千代川を遡りながらひとまずは本梅へ。この辺りからまた美しい花々が咲き誇る棚田にお目にかかれますが、すぐにまた右写真のような山道が入ります。


 左写真に写ってるのが千代川。これを遡っていきます。しかし今更思うんですが、能勢なんて本当に行けるんですかね? 何のことやら、気にせず小暗い山道を西へ! そして出てきたのが本梅川流域。この川が園部経由で桂川に流れ込んでいることについてはさっきも言いましたよね。この辺は一面の田園風景。良いですね〜。


 この田園ももう秋の気配が近付いています。木々は赤く色付き、美しい紅葉を見せてくれています。そしてまたも坂道に突入。しかもかなり急です。この向こうに広がる土地は・・・期待感が胸に広がります。


 何か花脊で似たような風景を見た気が・・・。気のせいでしょうか? 時々私は世界がパラレルを為していると思う時があります。また話題が逸れました、閑話休題しましょう。坂道を急降下した向こうに広がっていたのは薄靄に包まれた本梅の沃野。能勢・篠山方面の玄関口とも言える場所です。ここで左折して国道477号線を南下します。一面に田圃が・・・。こういう風景には何かしら郷愁を(しつこい。


 靄に霞む山々から流れる川の周りに広がる壮大な田園風景。やはり日本の原風景はこういうものだったんではないでしょうか? 何か日々の出来事に疲弊しきった体が癒されますよ。良いですね〜。こういう風景・・・。森に、田圃に、山に・・・。おや? 何か煙が出ていますよ。どうしたんでしょう? どうやら、枯れ葉などを焼いて肥料にしてるようです(違ってたらごめんなさい)。室町時代の肥料の代表例は「草木灰」でしたからねぇ。たぶんこの灰に含まれるカリウム等の成分を肥料にしてるんですよ。こういう風景って丹波では本当によく見かけます。


 そうこう考えている内に標識が出てきました。もうすぐ能勢です。この道を最後まで進むと兵庫の川西まで行けるそうです。今から行っても絶対帰ってこれませんがね・・・。そして、側面では山が近くなってきています。田圃では稲の収穫ももう終わり、穂が束ねられています。


 道がカーブし、徐々に峠道へ。本梅も見納めです。さらば本梅! この工場さえなかったら景色も見事なんですけどねぇ・・・。まぁ雇用を生み出し経済を発展させてるんですから、文句は言えませんね。そして緩やかな峠道は完全に山の中へ。周り中木が密生しています。


 この柊峠の峠道を登り続けると、少しして「ようこそ能勢町へ」の標識が! 道路標識には「大阪府能勢町」とあります。このコースで大阪府まで来ちゃうとは・・・当初は夢にも思ってませんでしたね。


 能勢の坂道を柊峠から滑り落ちていきます。峠の頂上を抜けてすぐに景色が広がってきました。そして麓でカーブを曲がるとそこは一面の棚田! 綺麗ですねぇ。そして下の方からは白煙がもくもくと上がり、それに太陽光が当たって何とも言えない景色を醸し出しています。


 ふと右側を見ると、山腹から巨大な灯籠が! と思いきや、地図を見た所あれは八幡神社だそうです。しかし大きいですね。初め騙し絵かと思いました。皆さんも遠近法をいじって作られた騙し絵って見たことありません? 話がまた逸れました、閑話休題。八幡神社の横を通過し、更に南へ下ります。中央の写真とか結構見事だと思いません? 一面に広がる田圃、山際に所々点在している家々、そして中央を貫く水路。見事な場所です。皆さんも是非一回は来るべきです。目の保養になります(巷で使われている意味とは違いますよ)。


 棚田の間を下っていくと、交差点に出てきました。その名は・・・清正公前!? はい? 清正公の前? 一体どういう由来でしょうか? 加藤清正はこんなところに関係なかった気がします。改めて地図を見ると、この交差点の南東の角に寺があって、それが清正公堂というようです。そしてこの交差点から西に行けば能勢西部やひいては丹波篠山にも行けます。が、今日はもう時間がないのでやめときます。もう4時なんでね。ついでに右写真の石碑は「皇太子殿下御降誕記念」のものです。どの皇太子の記念にせよ、わざわざ石碑とは・・・。


 さて、そろそろ帰路に就きましょう。この道を左折し、犬甘野・亀岡経由で京都に帰るとしましょう。そして左折してすぐバス停を発見。よく見ると何と「阪急バス」! ああ、何と遠くに来てしまったものか・・・。今更になって実感。最早丹波ですらない。景色は確かに丹波と一緒なのに・・・。ここは摂津なんですねぇ。「奥山内」・・・この地名は忘れられなさそうですね。まぁ何はともあれ東へ。中央の写真を御覧下さい。柊峠がちょうど正面に写っています。ついでに正面の木立(?)は何でしょうね? よく分かりません。まぁそれは置いといて、道を東進して堀越峠へ。この道を正面に行くと犬甘野、左折すると前いた亀岡、右折すると池田に行けるようです。


 さらば能勢! 能勢の棚田の風景を後に堀越峠の山道を登っていきます。最初は別にどうということもない。しかしこの後堀越峠の新の猛威が牙をむくとは管理人も知るよしがなかったのだ!


 さて、今まで100kmを超える道程を走破してきた上に、六丁峠、神明峠、柿ノ木峠、観音峠、柊峠といずれも規模自体は大したことはないものの、数にして5つもの峠まで越えています。体力もかなり消耗しているので、できるだけ体力温存をしながらこの峠も越えたかったんです。


 ・・・何かどんどん傾斜が急になってきているのは気のせいでしょうか? 車の影一つだにないこの山道はどんどん傾斜がきつくなっています。でも、何とか登っていくと漸く頂上。地図で見てみたらこの峠の標高は3005とかなってましたけど、300.5の間違いだよね、きっと・・・。多分これで温存すべき体力殆ど使ったんじゃないの? 大丈夫なんですかね? 無事に帰れるんでしょうか? しかももう4時半ですよ。何か危険な匂い・・・。

 そして左写真が今まで登ってきた堀越峠西麓の道。角度が悪くて見えてません。最早落とし穴じゃねぇか! じゃぁ今から堀越峠を急降下していきましょう。その間に体力が回復すると良いなぁ・・・。そして、何故「京都府亀岡市」の標識が立っていないんだ? もしかして迷子・・・そんな筈ない!(と思いたいです・・・)

 後、右写真ピンぼけしてるとか言わないでくださいね。手許が多少狂ったんですよ・・・。疲れると皆さんもそうなりませんか?


 何だかんだで坂道を急降下! 能勢杉原の仏称寺の横を通り抜け、もう一度小さい坂道を上ると、漸く「京都府亀岡市」の標識が。普通、境界線て分水嶺に置きません? ここは最早桂川支流の犬飼川の流域です。ああ、漸く京都府に帰ってきましたね。まだ丹波ですが。


 鳥たちも塒に帰っていく・・・。早く家に帰らなくちゃなぁ。もう4時50分。このままじゃ日が暮れるよぉ・・・。しかし今私にできることはこの道を真っ直ぐ進んで犬飼川沿いに帰ることだけだ。急ごう。ん・・・? 川が進行方向と逆に流れているぞ!?


 間違いありません、川が進行方向と逆に流れています! しかし地図を見ても他に道はありません。もうヤケクソだぁ! どうにでもなってしまえ! てな訳でひたすら北東へ進みます。おっと、ここで牛舎発見! 年賀状にでも使おうかな。でも、あたりが暗くなり始めてて分かりにくいか。何か立派な塔が立ってますね。農協の建物でしょうか?


 そしてまさかの峠道!? 何かこの先急激に降りになってるんですけど。果たしてこの道がどこへ続くのか誰に分かろう。いや、誰にもわかりはしないのだ(反語)。・・・と思いきや救いの看板が! 左折すると「京都・亀岡市街」方面へ、右折すると「大阪・池田」方面へ行けます。とするとこの道は・・・摂丹街道こと国道423号線。右へ行ったら野宿決定ですよ。危ないなぁ。そして左折して暫くすると、がけの上に家が。2008年に大人気になったポニョはああいう家に住んでたんでしょうか? でもなんかああいう家には少し憧れますよね。え、私だけですか? か、閑話休題しましょう。


 そして迎えたヘアピンカーブ。降りだからまだマシですが・・・。遂に日が暮れてしまいます。ちょっと、暗い中でヘアピンカーブとか危なすぎじゃね? まさかこんな所で亀岡の夜景を見ることになるとは・・・。しかし私に希望を与えてくれたという点で、亀岡のこの夜景は私にとって長崎や札幌の夜景より綺麗に見えましたよ。まぁこういうシチュエーションにならんと分からないでしょう。そして牙をむくヘアピンカーブ。暗い時のヘアピンカーブは一層タチが悪い・・・。


 ヘアピンカーブをかいくぐって漸く平野部に出ましたが・・・真っ暗なのでどっちがどっちか全然分かりません。最早自分の直感に従うのみ。車に轢かれないようスピード落とさなきゃなりませんけどね。そして茨木街道との交差点で救いの看板登場! まだ直進しなきゃならんみたいです。そしてこの看板の近くを大音声と共に右翼の凱旋カーが通り抜ける。怖いですよ。総毛立ちました。仕方がないから近くにあったローソンに寄って訊いてみることに。ここはどこ?

 親切な店員さんが地図を見せてくださいました。それによるとここは曽我部。曽我部の南条という所だそうです。そしてその地図を見る内に犬甘野での謎も解けました。犬飼川は初め犬甘野の北の境から流れ出て、能勢杉原の川と合流して初めて北東に流れるらしいのです。そしてその畔には道は通ってないとのこと。何ともはや・・・。しかしローソンのお陰で助かりました。ありがとう店員さん! この店の商売繁盛を祈ります! 時に今は5時半。やっぱ冬ですねぇ。日が暮れるのの早いこと・・・。


 しかし地理さえ分かれば後は大丈夫。加塚で山陰街道に乗り、そのまま京都へ。途中アルプラザを通ると何故か看板には「天空の城ラピュタ」。意味がわからん・・・。そして道を埋め尽くす自動車の群れ。でも、もう道は分かってるので余裕綽々。ゆっくりと老ノ坂まで進みます。ん・・・月が出てる見たいですね。


 そうこうしてる内にもう老ノ坂。トンネルが見えてきました。長かった。が、短かった。この旅は・・・。え〜と、今は・・・6時21分ですか。家帰ったら滅茶苦茶怒られるな、こりゃ。


 京都市突入! 家はもうすぐ。小畑川を渡り、芋峠を越え・・・


 千代原口から物集女街道沿いに北上。松室経由で嵐山に向かい、中之島へ。最早京の都はとっぷりと闇に暮れている。またこうして旅に出られるのはいつの日のことだろうかと物思いにふける管理人であった。

ーTHE END−

 そして家に帰ると、「あんた今何時や思っとんの!?」 これは当分旅に出られそうにないと嘆く管理人でした。

(今度こそ本当にこの旅の・・・)ーTHE END−