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美豆


桂川と宇治川が合流する淀の地の先端部(淀駅の南の水路のの西側)にあります。

涼森神社を中心にまとまった地域です。

昔、このあたりに城があったそうです。

山崎と男山に睨みを利かすことのできる要衝の地。

住民は人情にあふれる素晴らしい人々です。


 美豆訪問の当初の目的は、旧淀城(納所城)発見+美豆城発見でした。

 納所城は事前調査の甲斐あって簡単に見つかりました。納所の妙教寺の中に↓石碑が残ってます。

妙教寺の門+my自転車→→→→→↑

 こうして見ると、納所城は鳥羽・伏見の戦いの戦場にもなった模様です。


 納所城は簡単に見つかったので、今度は美豆城を探しに行ったのですが、石碑がないので見つかりません………。

 そこで現れたのが美豆の住民Y氏です。管理人が涼森神社に行ったところ、偶然出会い、美豆小学校の教師(R中学校の古文の教師M氏に似ていた………)や特養「淀の里」の人々、更には淀南学区福祉協議会長のK氏(この人に年賀状を出したらちゃんと返してくれました………感激です!)までもを巻き込んで、情報を提供していただきました。

 まるで「探偵Nスクープ」みたいでしたが(淀に縁もゆかりもない私に暖かいご支援を下さった上記の皆様、ご協力ありがとうございました)、この情報の概要を以下に示します。

美豆城

 

 応永25年(1418年):三方山城入道(範忠)が[山城]国に入部。………美豆に城郭を構え………云々。

 『看聞御記』のこの記述が、美豆城についての最初の記述となります。

 美豆城の城郭は涼森神社の西接した南北100m×東西110mの土地に立っていたそうで、大きさからすると検問所的な性格の砦であったような気がします。いずれにせよ、さほど大規模なものではなかったようですが、南西方向からの軍勢の進入を見張るために淀に造られたという点では、納所城・淀城の前身としての役割を担ったものであったようです。

 山下正男氏の「京都市内及びその近辺の中世城郭」によれば、大正時代には東側の堀が、明治時代には南側の堀と西側の堀の南半分も生き残っていたそうなのですが、戦後の耕地整備のせいで、水田の畦が西北→東南へと一斉に傾いたそうなのです。しかし、旧状においては正確な南北、東西の区画があったそうで、その城郭地の旧小名は「柳の木」、南接地は「大條の木」といったそうです。

 終末期の城主は不明ですが、後に『足利季世記』に「三好三人衆は………其(の)勢1万余人、永禄12己巳正月3日(1569年)堺を打[ち]立[て]………3日は山城のミズ(美豆)と云[う]処に陣取[る]。」という記述が見られ、これが最後の記述かと思われます。