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南の険・暗峠(2)


今回の行程(2)  於1月23日(金)

〜菜畑〜竜田川〜南生駒(小瀬)〜酷道308号線〜暗峠〜枚岡〜東大阪市〜八尾〜柏原〜大和川〜長居公園〜あびこ筋〜四天王寺〜上町筋〜上本町〜難波宮跡〜大阪城〜京橋〜関目〜守口〜京街道〜自宅   



 雲の切れ目から太陽が顔を覗かせ、管理人の行く手を隈無く照らし出したとき、管理人が目にしたもの――それは、雲を貫き聳え立つ生駒山の峨々たる山容でした! 初め目の前に聳え立つ生駒山の壮麗な姿を見た時、生駒山の斜面を覆っている白いものは雪だと思っていたんです。が、太陽の光が強まるにつれてそれが建物であることを知ってビックリ! こんな山の斜面にまで家を建てる生駒人のクォリティの高さには兜を脱ぎます。標高642.3mの巨大な山の斜面を家で埋め尽くす――常人には思いも寄らないことですよ。だって京都の大文字山の頂上とかより遙かに高いんですよ。そんな所に町ができるあたりにビックリします。さて、そんな生駒山の山容を眺めつつ道を滑り降りていくと、菜畑駅に到着したみたいですね。ちょうど近鉄の電車が目の前を通過していますよ。そして遂にやってきましたよ、竜田川です。

 竜田川については、百人一首にも2つ程歌がありますね。一つが『伊勢物語』の主人公、六歌仙の中に名を連ね、当代きってのプレイボーイとしても知られた在原業平(825〜880)の詠んだ

ちはやぶる神世も聞かず竜田川
からくれなゐに水くくるとは(『古今和歌集』)

 という歌です。百人一首の17番目の歌だとか。大意は、「不可思議なことが数多起こった神世の昔にさえ、こんな事は聞いた試しがない。この竜田川の水が深紅にくくり染まるとは」という所でしょうか。因みに相撲好きの私の父はこの歌に、冗談半分で「ちはやという女にも振られ、神世という女も力士竜田川の求愛を聞いてくれない。そしてある日、変わり果てた姿のちはやが力士竜田川の前におからの施しを求めにやってきた。しかし力士竜田川はそれが昔自分の愛したちはやとは夢にも思わず、にのべもなく断ってしまった。これを聞いたちはやはおからを貰えなかったばかりに川の水に身を投げてしまったのだ」という解釈を弟に教えていましたが・・・在五中将の時代に果たして力士はいたんでしょうか? まず以てそこが疑問ですね。まぁどの道冗談ではありますが・・・。

 で、もう一つの歌は26才にして出家し、奥州・伊予・美作等諸国を回り、藤原長能に歌を学んだ俗名橘永トこと能因法師(988〜)の詠んだ、

嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
竜田の川の錦なりけり(『後拾遺和歌集』366)

 という歌で、百人一首の69番目の歌ですね。大意としては「嵐が吹き散らす三室山の紅葉の葉は、竜田川の上に舞い落ちて錦のように浮かび流れる」と言う所でしょうか。ここは今でも紅葉の名所として知られていますが、それは遙か昔、文武天皇がここに行幸した時、その紅葉の美しさに感動した所まで遡ると言います。


 燦々と降り注ぐ陽光の下、竜田川に沿って自転車を進めていきます。中央の写真の木見えますか? 今は冬の真っ盛りで枯れていますが、恐らく秋には見事な紅葉を見せてくれていたように思えます。いやはや、良い場所です。それに、変な言い方には成りますが、竜田川って何か健康な川ですよね。京都とかで見る小川は、本来の川床にはびっしりと葦が生い茂り、その間を縫うようにして申し訳程度の水がちょろちょろと流れているものなのですが、ここ竜田川では、川は満々と水を湛え、川の敷地いっぱいに水が流れています。そして、国道168号線に合流したので、そこから南下するとしましょう。うわ〜、また曇ってきたなぁ。


 こうして生駒の東側の町を撮影して思ったんですが、何か完全に曇っちゃいましたね。雨降らなきゃ良いんですがねぇ。因みに、町の前を流れる緑の筋は竜田川。天気のことを愚痴ってる内に南生駒駅に着きました。標識には「国道308号線、幅員狭く寸断」みたいなことが書いてあった。本当に大丈夫なのか? この国道。まぁ仕方がありません。暗峠に通じているのはこの道だけですから。という訳で、そろそろ竜田川から離れてその酷道308号線とやらを探しに行くとしましょう。さらば、竜田川。この後竜田川は斑鳩まで流れていって、大和川と合流して大阪湾に流れ出ます。


 で、その酷道308号線ですが、捜しても捜してもどうもそれらしものが見あたりません。新神田橋を渡って、菓子一番という店の前まで行きましたが分かりません。そこで、糖分補給のために駄菓子を購入すると同時に、件の国道の場所について尋ねてみました。すると店長曰く、どうやらこの国道、南都銀行生駒支店北東の小瀬町西を通過しているそうです。記憶を探ってみましょう。確かに南都銀行は通りました。しかしその横に大きな通りがあった記憶が全然ありません。更に聞いてみると、この店長の知人が暗峠を越えたことがあり、行きは3時間(!)、降りは20分かかるそうです。さ、さ、3時間!? マジで? 大阪湾どころか家帰れそうもないじゃん。仕方がないので、店長に礼を言って、すぐさま南都銀行までとって返し、言われた通りに捜してみたんです。

 そして見つけたのがこの小径。まさかと思って、通行人に聞いたらこれぞまさしく暗越奈良街道こと国道308号線。聞いた相手のおっちゃん曰く、この先の道は勾配が半端なく急だとか。本当に越えられるんですかね? というか、それ以前にですよ、国道に通学路の印がついているのは気のせいでしょうか? しかも、「この先車両通行不可」だって。国道かホントに・・・?


 刻々と不安が募ってくるのですが、ぼやいても仕方ないので、再び太陽が顔を覗かせ始めた街道をおやつを頬張りながら進むといたしましょう。すぐに辺りには田園風景が広がり始めます。昔の人は――特に豊臣時代ですが――この道を使って大阪・大和間を行き来していたと聞きます。で、この辺りから徐々に西風が強くなり始めます。気象予報でも「西高東低の気圧配置」が強調されていましたからね。その影響でしょう。風見鶏や洗濯物がぐるぐる回っていましたよ。そして早くもえげつない坂が現れ始めます。いよいよ、暗峠攻防戦のスタートですよ。


 この辺りから車がスリップしないよう、舗装が坂道特有のでこぼこのものに変わり始めます。この写真を見ていただけば既に傾斜がえげつないことになり始めているのはお判り頂けるでしょうか。急傾斜の坂の両側には石垣を備えた家が展開し、面白い店も所々あります。・・・あんまし売れ行きは期待できそうにありませんけどね。こんな坂道はよほどの物好き意外みんな敬遠するからです。


 ほら、この家の石垣と比較すれば坂道のえげつなさがよく分かるでしょう? それもその筈この峠、頂上海抜は450m程度に留まるにもかかわらず、平均斜度が何と、20%! 国道としては日本一の急傾斜だそうな。しかし集落を抜けて林道にはいると、何故か一旦傾斜がゆるみます。普通逆だよな・・・。そして右写真に見えるように、工事現場に何故か敷き詰められる絨毯・・・。明らかに使い方を間違ってますよね。絨毯って普通家の中に敷くものですよね。それを工事現場に敷くとは・・・。


 林道を進んでいく途中見つけたのが、石像阿弥陀如来立像。輪高136cm(像高107.5cm)で、上部が欠損しています。来迎印を結んだ像全体を薄肉彫で表したうえに面部、納衣、衣文などを線彫で施しており、像左脇に「南無阿弥陀仏」、向かって右側面に「文永7年(1270年)」の銘があります。この後道中に石仏や地蔵が急増していることを考えれば、古代の旅人達がこの危険極まりない峠道を無事越えられるよう、願いを込めて作ったことは明白ですね。このあたりから竹やぶが増え始め、暫く進むと看板が見えてきます。直進すると目指す暗峠、右折すると生駒の駅に戻ります。で、ここから本格的な山道に突入します。


 で、看板が見えてきたわけですが、通学路に着き徐行・・・ちょ、ここが通学路!? こんな山奥が通学路って・・・どこかこの辺に小学校でもあるんですか? それ以前にこの辺に子供がいるとでも言うのですか? そしてさらに言えばこの辺で工事すること自体・・・いや、安全上は確かに大事なんですが、正直必要度からいうと・・・。まぁこの後は、自民党の道路族や、民主党の人々が議論する問題でしょう。しかしこの辺竹藪が多い・・・。昔の道に竹やぶは付物なんですかね。お、なんかこの期に及んで道が立派になってきましたよ! 道幅といい、舗装状態といい、とても走りやすいですねぇ。暗峠唯一の平坦な道ですかね?


 平坦な道に勢いづいて自転車を奪取させますが・・・その先に見えたのは、山腹にまきつくように伸びていく山道。マジで!? テンション急降下。またこのやばい道を登り続けるの? 想像するだけでぞっとする。南生駒の菓子屋のおっちゃんは3時間て言ってたっけ? 家帰れねぇよ、このままじゃ・・・。ふと左を見ると目に入ってきたのは、樒原に劣らぬ立派な棚田――樒原流に言うと「鎧田」――です。ここら辺の傾斜が大体わかるでしょ? 一方道の右には・・・ん? これは何でしょう?


 近づいて撮影してみるに、これは石仏ですね。ほら、花が捧げられてるでしょう? 古代の人間もこういう難所では、無事通行できるよう自分の力を越えたものに頼ったと言うことでしょうか。で、くらがり峠の石碑も出てきました。いよいよ頂上は近いのか!?(・・・と信じたい)。今度は石碑に和歌が乗っています。何と犬養孝万葉学者書で書いてありますよ。

奈尓波刀乎 己岐埿弖美例婆 可美佐夫流 
伊古麻多可祢尓 久毛曽多奈妣久

 といっても、私を初め大多数の人間は万葉がなで書かれても、「はひ?」てなりますよね。だから一応古語の翻字も横に書いてあります。曰く・・・

難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる
生駒高に雲ぞたなびく(『万葉集』20.4380)

 防人の歌ですね。大意としては、「大阪湾を船でこぎ出してみると、神々しく聳え立つ生駒のお高嶺に雲がかかっているなぁ」という所でしょうか。万葉時代に、難波の港から九州に連れて行かれる防人がふと振り返った時に東に聳える生駒山を目にしたのでしょう。しかも当時、未だ大阪湾は淀川の土砂にそんなに押されていませんから、海岸線は今より遙かに東寄りで、生駒山もそれだけ大きく見えたんでしょう。きっとあの山の向こうで自分の愛する人が待ってくれている、この防人はそう思ったに違いありません。・・・私の完全な独断と偏見によればの話ですが。


 で、時計を見ると生駒で迷子になったこともあり、早12時。おなかが減ってきた訳です。御飯時ですかね。そしてちょうどいいタイミングで辺りに「手打ちうどん」の颪が。風舞という店です。どれにするか迷いましたが、秋・冬限定の「いのししうどん」しますか。左写真に写ってるのがそれですよ。値段が1300円と高いのが玉に瑕ですが、猪なのに臭みがなくて、その上美味しいんですよ。しかも確実に満腹になる量だからたまらない。これを逃す手はありません。ちょうど、京北キャプテンラーメンの猪ラーメンと双璧を為すメニューですね。まぁ味は私が保証します。・・・て、いつの間にかグルメリポートになりかけてますね。閑話休題します。ここで店長と話をしてみた所、なんでもお伊勢参りなるイヴェントがあって、その行程にこの暗峠も入ってるのだとか。何でもその行程、大阪→暗峠→奈良→桜井→初瀬→伊勢本街道→伊勢神宮と進むとか。伊勢本街道は今度ある程度通ってみたいですねぇ。で、肝心の家に帰れるかどうかを聞いてみたら、店長は私がハイキングできたものと思いこんでいたようでして、駅まで行くことを進めてくださいました。そして私が自転車で来てることをお伝えしたら真剣に私が帰れるかどうか心配してくださいました。この通りちゃんと家に帰り着いているので、店長、1月23日の正午に訪れた青服の客は無事生還して、感謝の意を伝える次第であります。どうも有り難うございました。しかし不幸中の幸い、峠の頂上は後15分行程だそうです。さすがに、駄菓子屋の店長が言ったことは誇張だったんでしょうか。さぁ、満腹になって再出発。再びこの見事な棚田の間を縫っていくとしましょう。


 ああ、下があんなに小さい。見よ、棚田がゴミのようだ。すいません、自重します。うわっ、また上り坂が激しくなってきました。あくまでしぶとい峠、それが暗峠クォリティ。で、何故かこんな所に地鶏の鶏舎が。正直こんな山奥で出荷できるんですか? 大型車両は入れないんですよ。それとももしかして阪和道路を使うという荒技に出てるんですか?


 木材置き場を過ぎていくと、また舗装状態が変わってきました。これが最後の難所(だと良いなぁ)。なんとか自転車を漕いでいきます。疲れた体に鞭打ちながら。でも、さすがに途中でへばってまた前のように押すことに。無茶はダメですね。も、もしかして右写真の彼方に見えるのは阪和道路!? とすれば頂上間近。よぉし、頑張るぞ! ・・・しかしこの友遊由は何でしょうかね。ぱっとみいおもちゃの風車みたいな感じでしたが。それで分かったことは偏に西風が強いこと。山の上だからねぇ。


 何とこんな所に本陣の碑が。こんな高い所に本陣って・・・。暗峠の重要性がうかがい知れますね。何でも大和郡山城主柳沢家の本陣だったそうですね。そう言えば、風舞の店長もそんなこと言ってたなぁ。そのためか、頂上付近は古風な雰囲気の残る石畳の道になっています。凡そ峠の頂上とは思えませんね。こんな険しい峠なのに頂上がこんなに整ってると何か拍子抜けしますね。


 阪和道路を潜って進むと、目の前に現れたのが大阪府 東大阪市の標識。そして右手には暗峠の石碑が。やったぁ、暗峠制覇! ここで暗峠の歴史について語ってしまいましょう。うっとおしいと思う人は華麗にスルーしてくださいな。

 河内平野を横切り、生駒山地を越えて大阪と奈良側を結ぶ街道としては北から中垣内越(古堤街道)、暗越(奈良街道)、十三峠越(十三街道)、亀ノ瀬越(北八尾街道)などがあり、これらとは別に枝道として幾本もの山越え道が古来存在していました。この中で、生駒山頂の南側の鞍部である暗峠(標高455m)を越える暗越奈良街道は、大阪・奈良間を最短距離で繋ぐ8里8町(約34km)の道で、日下の直越の道と共に奈良時代以前から使われてきた古道の一つですが、江戸時代に入ってからは本街道ではなく、脇往還として盛んに利用され、旅客・貨物の重要な交通路となりました。この街道の難所である「暗峠」には石畳が敷かれ、『河内名所図絵』(1801年刊)に描かれているように、「河内屋」「油屋」など20軒近くの茶屋や旅籠があり、伊勢参りの人々でにぎわいを見せたと言います。峠付近には石畳と石仏・石灯籠が残り、説明板の横にも「和州矢田山出迎地蔵尊」と刻む万延元年(1860)の道標、摩滅した文政10年代の「おかげ灯籠」が残っています。

 でもふと思ったんですが、ここまで道を通ってきた感じでは、その名に似合わずそんなに「暗がり」はありませんでしたよね。では何故暗峠というのか? これといって定説はないようですが、以下にその有力候補を述べてみましょう。

 先ずは、『河内名所図会』(享和元年、秋里籬島)を典拠とする椋ケ嶺峠説。それによるとこの暗峠はかつて「椋ケ嶺峠」と書き、「世に暗峠という者非ならん・・・中略・・・生駒の山脈続て小椋山という。故尓椋ケ根の名あり、一説尓は此山乃松杉大ひ尓繁茂し、暗かりぬればかく名付くともいう」という記述があったそうです。その後、時の流れと共にこの峠は「クラガリ」という音に訛っていったと言います。一方近年の研究によると、「くらがり峠とは普通には暗がり峠であって、樹林の鬱蒼と繁茂した昼なお暗い山越えの道であると解釈されて居るが、或はその「暗がり」の言葉の起源は、鞍借りとか、鞍換へとかから来るのではないだろうか」とする説(中村直勝「枚岡の語らい」『郷土誌ひらおか』第1号 昭和33年)もあります。それ以外に地域に伝わる伝承としては、「五世紀の初め頃、神功皇后三韓征伐に 当り、朝の鶏鳴を合図として生駒町西畑を出発したところ、あまりにも鶏が早鳴きしたために峠へ到着しても夜が明けずに暗かった、あるいは8世紀の中頃、道鏡がこの峠で和気清麿を暗殺しようとした時に、俄かに雷雨があって一面真暗となりその目的が果せなかった」(河内郷土研究会「史跡名所めぐり 暗峠(闇峠)」『郷土史ひらおか』第2号 昭和33年)というものもあります。

 以上の諸説をトータルして考えてみるに、暗峠の北に聳える生駒山にの字があり、この暗峠も古来交通の名所でもありましたから、やはり近年の研究に従って、鞍借りにその由来を求めるのが一番正しいのではないでしょうか。いずれにせよ、真相についてもっと詳しく知りたい方がおられましたら、奈良県や大阪府の地名語源辞典に当たってみるのが良いのではないでしょうか。


 多分これが件の「おかげ灯籠」というヤツでしょう。そして灯籠の向こうに広がる棚田の壮観。とか言う間に、 ビュオォォォー! 西からものすごい突風が吹いてきました。突然の風にかろうじて体勢を立て直しますが・・・ん? 今何か横を飛んでいかなかったか!? そしてこの半端なくきつい暴風はそれから続く続く。まぁ、まだ今から下り坂なんで何の問題もありませんがね。しかしその下り道というのが・・・これホントに国道ですか? 何か道幅も全然ないし、両脇に生け垣やらあるし。しかも更に進んでいって思ったんですが、右の写真を御覧あれ。右の写真の左右の道のどっちが国道だと思いますか? 写真を見ただけなら私は迷わず左と答える所ですが、何と驚くべき事に国道は右側の灰色の道です。道幅は・・・左の道の方が大きいように見えるのは気のせいでしょうか? しかも「国道」の左側の段差にはガードレールの影も形もないんですよね。ホントに国土○通省は何をしてるんでしょうか。道路族の議員にしても、国家予算を大層取っておきながら、こういう道をより安全にすべきなのに何もした気配がありません。何と言うかね・・・。


 お、出てきました。御約束の「以上気象時通行規制区間」。まぁ当然ですわな。異常気象時にこんな所を来るまで走ろうもんなら、あっという間にスリップして『トムとジェリー』みたいなことになりますね。え? 嘘くさいって? じゃぁ実際に行ってみられては如何でしょう。この傾斜を目にしたらぐうの音も出ませんよ。で、傾斜がえげつないことになっているんですねぇ。ストップしても自転車がずるずると滑り落ちていくという。スタンド立てても同じこと。写真を撮ろうにも、一々横向けに自転車を停めてから取らないと行けません。凄まじい傾斜ですね。京都では鷹峯の然林坊〜吟松寺区間の坂道の傾斜がえげつなかったんですが、それでさえもこの坂道とは比較になりません。当然、こういう難所では道行く旅人も不安になる訳で、ほら、この通り地蔵の祠やらがある訳です。昔の人は恐らくこの峠道を行く時、道の端にあるこのような祠に旅が恙なく遂げられるよう祈りを捧げていったんでしょうねぇ。で、坂道はというと・・・ますます酷くなるばかりです。この道が百井国道と並んで酷道と呼ばれる所以ですな。右写真じゃちょっと伝わりにくいかも知れませんね。でも、多分この辺が最大傾斜の37°ではないでしょうか。文字通り危ない道ですな。


 一般に私は(他の人もそうかと思いますが)下り坂が好きです。楽なんですよ。で、下り坂というものにも実は4段階ほどあるんですね。地名の多様のため、ネタ元が分からない方がおられるかと思うと非常に申し訳ないのですが、緩やかな順に、私の経験則から言うと・・・

   @五辻通型
   A千本北大路型
   B信楽型
   C暗越型

 の4つですね。これだけ言われても読者の皆様は「はぁ?」としか言いようがないかと思いますので、補足説明を加えるならば・・・、@は一応は下り坂なものの、ペダルは漕がなければいけないという、実質上の平坦な道で、どこでもよく見かけるものですね。正直何も感じない下り坂です。Aはまずまず傾斜が着いた下り坂で、ペダルを漕がなくてもそれなりにスピードは出てくれます。まぁ、ブレーキをかけたらそれまでなのですが、結構漕いでて楽しいものです。何せ楽なんでね。Bになってくるとスピードが麻薬のようなことをし始めます。ここいらで初めて、スピードを出すことそのものが快感になってきます。スピードはスピードを呼ぶというヤツですね。こうなってくるとペダルを漕がずとも、それなりに気合い入れて走ってる時ぐらいのスピードが出るんで、本当はペダルを漕ぐのを止めなきゃいけないのですが、もうこうなったら「止められない、止まらない」という代物です。女の子とデートするくらいドキドキしますよ。まぁ別種といえば別種ですが。大体の峠道がこれに当てはまります。山中越も途中越も、そして花脊峠や佐々里峠、能見坂もそうでした。しかしCに至って快感は頂点を通り越し、逆に恐怖が最高潮に達するんですよ。訳分かりませんか? う〜む、どう言ったものか。分かりやすいかどうかは別問題として、ある一線を越えると生物の本能が目覚めるんですよ。危険を察知する本能がね。私は未だ嘗てこの例は暗峠以外知りません。そしてこれからも知ることはないでしょう。恐らく大半の人間はCを経験したことがない気がします。

 うわッ、この傾斜でヘアピンカーブ!? カーブ切れる気がしない・・・。カーブ切り損ねたら谷底行きです。まぁそれで死ぬなら本望ですが。冗談です。さて、冗談はおいといて、景色が開けてきました。御覧下さい、東大阪市の市街地です。一面に建物が広がっています。さすがは大阪の御膝許ですね。そして遠く大阪湾は雲に霞んで見えません。大阪市も広いみたいですね。何か狭い感じしますが。因みに、この道の傾斜に関しては右写真の通り。水平面は落ち葉が重なってる駐車場と同じです。三角定規を持ってきていただければこの坂の傾斜が25°くらいあるのが分かりますかね。これでも暗峠全般から見ると、まだマシな方なんですよ。


 下り坂はどんどん酷さを増していきます。何と聞いた話では最高傾斜が37°という。恐ろしい限りです。こんな所に禊行場があるのも無理なからぬことです。恐らく古来ここは指折りの修行場として知られていたことでしょう。近くには右写真の観音寺やら光明山神惑寺やら寺もいっぱいありますんでね。間違いないでしょう。因みに右写真のもう少し上野地点からは観音寺を上から覗き込めます。いや、ホントですよ。


 そして観音寺の辺りからは道に左写真のような溝が出て来はじめます。このため、自転車で危険も顧みずに爆走すると、これに引っかかって転倒、脳天をかち割ってめでたく成仏できます。みんな、ブレーキかけようね。おや、こんな危ない道を降りていく内に家が出てきましたよ。枚岡公園を通過して遂に枚岡の市街地まで出てきた訳です。それにしても未だなおこの傾斜。ここに住んでる人は大変でしょうねぇ。しかしもはやここいらになると完全に「下界」といった趣がありますね。選挙ポスターまで出てきました。公明党のものです。ということは近くに創価学会でもあるのでしょうか。しかし最近は自民党がネタ切れモードですから、そろそろ公明党も大変でしょう。これでもし民主が政権を獲ったとして、そこと連立を組むと完全な「小判鮫」となる訳ですが・・・。今後の国会に注目ですね。


 さて、暗越奈良街道を西に下っていくと、洞ヶ峠から河内国の東部を通り、長野経由で西高野街道と合流し、以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へと至る東高野街道との交差点、箱殿町に出てきました。この東高野街道というのは、集落を経ずに直線的に造られている所から、古代に計画的に造られた官道という話ですな。さて、それはさておき考える。酷道308号線の捜索に手間取ったこともあり、今は2時。普通ならもう帰らないとまずい時間。大阪から京都までは全部平野だからある程度帰りよりは早く着くとしても、片道凡そ6時間弱。が、今からこう遠出できる機会もそうないことだろう。とすると・・・どのみち帰れば怒られる。ならば毒も喰らわば皿まで。大和川と瀬戸内海を見に行きましょう。てな訳で、常軌を逸し、道を左折して一路南へ。よい子のみんなは真似しないでね。東高野街道沿いに走っていると、塾が見えてきます。名前は・・・「がんばる塾」。えええ〜!? もうちょっとネーミングあるだろう。時間の関係上撮影を端折っちゃいましたが、興味のある方は近鉄奈良線枚岡駅で降りて、この辺りを捜索してみてください。ちょっと笑えます。

 所で今私が走ってる東大阪市は何で有名か、皆さん御存知ですか? それは、ここが中小企業のメッカであることです。しかも中小企業の中でもとりわけ特殊技能を備えた企業が多いので、売れ行きも十分。何でも、ある企業は従業者数6人に対し、年収6億というすごさ。とても追いつけませんわ。あと、ここら辺の中小企業がもてる技術力を結集して「まいど1号」なる人工衛星の打ち上げも行われたとか。詳細は全く知りませんが、何にせよその技術力には底知れぬものがあります。しかしそんな東大阪も、昨今のサブプライムローンに端を発する金融危機の荒波には抗えず、不況に晒されているようです。しかしさすがは大阪人、本町横丁では「不況なんて吹っ飛ばせ」の掛け声の下でバーゲンセール。ただ、その意気込みは大いに宜しいのですが、半端ない人混みのせいで自転車の進行の遅れること遅れること。やっと横丁を抜ける頃には既に10分経過。やばい、大切な時間が・・・。と、南に向けて爆走する途中、東大阪の技術力の証をまた一つ見つけました。世界初真空ガラススぺーシアだそうです。省エネや結露に宜しいそうで。まぁ、さすがは東大阪と言う所でしょうか。


 さて、東大阪の南境を越えて今度は八尾市に突入します。八尾といえば、先日私を教えてくれているとある英語教師の御父様がお亡くなりになりましたが、その葬儀が八尾で営まれたとのこと。心から御冥福をお祈り申し上げます。で、八尾の町ですが、雰囲気は東大阪市とそう変わりません。相変わらず中小企業がたくさんありますし、生駒山系の麓には長閑な田園地帯が広がっています。さて、左に長閑な田園風景を、右に居並ぶ中小企業を見ながら何かしていくと、神社を発見します。玉祖神社と言うそうです。その由緒はかなり古く、奈良時代以前からこの地は玉祖郷で玉造りに従事した人々が居住したことに拠るそうで、玉祖宿禰は玉造部を統率した氏族支族に玉作連氏がある玉祖宿禰氏の祖神を祀ったものだといいます。神社由来に拠れば、710年に周防の玉祖神社より分祀したとありますね。相当古い神社です。こんなのが今から生駒山系の麓に2, 3続きます。この辺りは神社仏閣も多く、あちこちに右写真のような石碑が建ってますね。暇ができたら調べてみるのも一興かも知れません。


 更に南に進むと、日本真空包装機械株式会社を発見。そうか、真空パックにはやはりこのような技術が今日せられていたのか。これで私の小学校時代からの疑問がまた一つとけました。やはり真空パックには独自の用いられていたんですねぇ。皆さん、日頃何気なく破いてゴミ箱に放り込んでいる真空パックにもこういう裏があったんですよ。知ってましたか? 恥ずかしながら私は今までそのようなことを存じませんでした。人生何事も勉強ですね。さて、話を元に戻しましょう。時間も刻一刻と経っていく訳ですしね。

 時間との競走の中、ひたすら南下していく道中で今度は恩智神社を発見します。これはさっきの玉祖神社より更に古く、その創建は何と遙か古の雄略年間(470年頃)にまで遡ります。中国風に言えば、倭国の武王の時代です。奈良時代になると更に、藤原氏の祖神である『天児屋根命』が常陸国「現香取神宮」から御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年間に枚岡神社経由で奈良の春日大社に祀られました。従ってこの神社は別名元春日とも呼ばれているそうです。その後859年、所謂「9世紀の寒の戻り」に伴う大旱魃に際して勅旨が参向し、祈雨の霊験があったり、続く994年4月には中臣氏を宣命使として幣帛を奉納し、疫病等の災難除けを祈願したりしたといいます。なんでも、この神社の大祓神事の由来はここまで遡るそうな。更に南下し、街道を下っていくと、柏原市の安堂駅に出てきました。道路が大和川の土手に向けて高まっているのと、線路が低いことが相まって、この駅では電車を上からのぞき込むことができます。鉄道ファンにとってはある程度魅力的な駅ではないでしょうか。入場券買わずに電車を好きなだけ眺められるので・・・。いずれにせよ、ここまで来れば大和川はすぐそこです。


 御覧下さい、大和川です! 遂に南の目的地に到着しました。時に3時。後は住吉大社経由で大阪湾に出て、淀川沿いに家に帰るだけ。この大いなる川は大和は斑鳩のあたりから生駒山系の破れ目を縫って流れ出し、遙か大阪湾に注いでいきます。大阪湾に出るにはこの川沿いに進めばいい訳ですよ。

 おや、大和川の土手近くに誰かの像が建っています。え〜と、名前は・・・中甚兵衛さんです。隣に説明板があったので読んでみますか。曰く、大阪平野は大和川などの川によって作られた洪積平野であるため、そこには常に洪水の危険がつきまとっていたといいます、古くは、飛鳥、奈良時代から洪水の記録があり、江戸時代になってからでも元禄年間までの約80年の間で10数回もの洪水が河内地方を襲ったそうです。大和川は、自らの堆積作用により天井川となっていたため、ひとたび洪水が起こると、その被害は計り知れないものとなっていました。特に延宝2年(1674)から3年連続いて計4回起こった洪水は「未曾有」とさえ表現され、被害は河内地域のみならず、大坂市中にまで及んだといいます。柏原市域に限って見れば、特に寛永10年(1633)の被害が甚大で、当時の柏原村の大半にあたる40〜50軒もの家屋が流失し、36人もの死者が出てしまっています。このため、昔から川ざらいなどの対策も行われていたのですが、抜本的な解決には至っていませんでした。砂はすぐ溜まりますしね。たびかさなる洪水により、人々の生活は疲弊の極に達しつつあったそうです。こうした被害をなくすため、明暦2, 3年(1656, 1657)頃、河内地域の農民から抜本的な大改革案が、幕府に直訴・嘆願されます。大和川をその支流・石川との合流点付近から西に向け、直接住吉・堺の海へ流れ込むように付け替えるという案でした。洪水に苦しむ流域各郡の代表者達は、大和川の付替えを何度も幕府に嘆願したといいます。しかしです、これに対して反対したのが、付替え予定地にあたる村々。そりゃぁ、いくら洪水が減るからって自分の農地が川の底じゃぁ、元も子もありませんから。逆に幕府に対して、付替え反対の嘆願を行うに至り、河内の意見を二分する有様。幕府はたびたび現地を検分し、付替え以外の解決策も検討しました。こうしたところから幕府による付替え決定まで、約50年もの歳月を要することとなったのです。結局、付替え促進派の今米村(現・東大阪市)庄屋・中甚兵衛らの長年にわたる必死の努力の結果、ようやく付替えが決定されたのは、1703年も10月のことになりました。着工は、翌1704年の2月。石川との合流点付近、現在の柏原市役所のあたりから西へ、延長約14km、幅約180mの新しい川を作る工事が開始されました。工事は、幕府が費用を負担する公儀普請として行われましたが、大名も御手伝普請として工事の助成を命じられます。工事の完成は、同年の10月。付け替えまでの過程とは対照的に着工後約8ヶ月という突貫工事だったそうです。結局の所、工事には延べ約245万人工事従事者と全部で約7万7000両(約200〜300億円)の費用がかかり、その内の約3万7000両を幕府が負担しました。ただし、旧川筋の新田開発についての入札代金が約3万7000両だったため、幕府にとっては収支ほぼ同額だったといいます。


 振り返って東を見ると、見えるのは斑鳩を覆い隠す生駒山系の山影。夏の終わりには私はあの向こう、遙か飛鳥を旅していました。さて、時間も時間ですから、さっさと住吉に行きましょう。道を西にとり、大和川の土手の下を進んでいきます。と、道中面白い標識を発見。曰く、「飲酒 運転 しない させない 乗車」とのこと。こういう禁則を見ると破りたくなるのは人の悲しい性ですが、そんなことをしたら即逮捕。というのも、この標識のちょうど向かい側に柏原警察署があるからです。因みに、酒を飲み過ぎると、アルコール濃度を測るまでもなくばれます。これは『世界丸見え』という番組でやってたのですが、アメリカで飲酒運転をしていたおっちゃんが警察にアルファベットを言わされた所・・・「ABCDGVXR○△※×+@&」と全く呂律が回らず。あと、酒といえば自民党の中川さん――我が家では通称「核兵器おじさん」――はバチカンで酔っぱらい、ミケランジェロのダヴィデ像にセクハラした所を捕まっていましたよ。まさしくシェイクスピアの「酒の精め、お前がどんな名で呼ばれていようと、俺はお前を悪魔と呼ぶぞ」との言葉は正鵠を射たものと言えそうです。

 それはさておき閑話休題、話を元に戻しましょう。車通りがあまりに多いので、安全な土手に登ってスピードを上げようとします。が、ビュオォー! ヒューン! ものすごい強風が吹いてきます。そう言えば暗峠でこの風吹いてましたよね。強い西高東低の気圧配置に加え、浜風が直に吹き寄せる。これじゃぁとても自転車なんて漕げたもんじゃありません。頑張って漕いで見るも、体力は見る見る消耗していき、その上隣を徒のおばさんが事も無げに抜かしていく。精神衛生上非常にヨロシクありません。その上大阪河口まではまだ13km。ど〜しましょうか。


 そうこう言ってる内に旋風が自転車の足をすくい、危うくこけかけます。こうなっては仕方ありません。自転車を降りましょう。隣のオッサンも自転車押してますし、別に良いですよね? 前を見ると橋とおぼしき水道橋。労働者がその上に登って修築しています。そして右には一面に工場か住宅。この工場は紀伊産業でしょうか。そう言えば、このもう少し北には八尾空港なるマイナー空港がありましたね。東大阪の技術力を支える一拠点であるかと思われます。別に確証はありませんがね。そして向こう岸に見えるのは松原Jct.です。向こう岸行ってみたいですね〜。でも行ったら絶対帰って来られないのでやめときましょう。しかし疲れましたな。西風は抗いがたいもので。え、信じられんて? ならば西高東低の気圧配置時にここに行ってみられることです。重たい荷物背負ったら更によく分かりますよ。まぁ、土手斜面の芝の上に少し横になりますか。う〜ん、気持ちいいと伸びし、そらを見上げたのも束の間。ビュオォー! ヒューン! 自転車がぐらっと傾ぎ・・・ドターン! すんでの所で受け止めることができました。受け止めてなかったら顔面直撃の一撃。なんちゅう風や・・・全く・・・。


 仕方がありません。残った茶を飲み干し、疲れた体に鞭打って再び土手を西へ進み始めます。
 向こう岸には高い煙突に靄に霞む工場群。神秘的な姿で私を南へ誘っています。しかしここでふと計算。今大体3時半。ここから京都へ片道で・・・さっきの計算はさすがに数値が大きすぎたと見え、5時間前後。今の時間を考えると直に戻っても9時ぐらい。しかも行きとは違って体力は暗峠と西風のおかげで消耗しきっています。ここで暗い考えが脳裏をよぎる。「果たして本当に帰れるのか?」と。どうなんでしょう? 電車の貨物に自転車を載せて帰るとか言うことができると聞きましたが、真偽のほどは? いや・・・そんなことを俺は認めねぇ。帰れるかどうかじゃないっ! 帰るかどうかだっ! しかしさすがに住吉大社や南港に寄ってる余裕はありません。その二つに寄れば凡そ1時間のタイムロスとなりますから。う〜む、残念。とにかく土手から降りなくては・・・。とはいえ、土手から降りる道は・・・皆無ですね。どこまで行きゃぁいいんすか? しかも和菓子の「河内駿河屋」・・・。土産物屋がぁ・・・。しかし土手を降りる道はありませんし、周りの家は治安悪そうだし。諦めますか。

 しかし何でしょうかね、土手の下を通るあの線路は? 後日、鉄道研究会の会長であるアンさんにこの線路について尋ねてみた所・・・この線路は阪和貨物線といって、1952年に敷設されて以来、阪和線と関西本線との間を行き来しており、かつては数々の回送車や貨物列車でにぎわっていましたが、そのにぎわいは今や過去の話に過ぎません。というのもです、1960年代当時の大阪都市圏の国鉄区間には都心部ですら単線区間が残っており、工事が大幅に後回しにされてしまい、ようやく大阪都心部の路線の整備が終わって周辺部の路線充実に取り掛かろうとした1980年代には国鉄の財政再建期間に当たってしまい、阪和貨物線の旅客化は中断となってしまったからです。その後JR西日本に引き継がれたものの、JR西日本は民間企業だけあって莫大な費用の掛かる旅客化には慎重になってしまっています。結局のところ阪和貨物線は全線を通して大規模な駅がなく、さらに半分以上の区間では南側に大和川が広がっていて駅勢範囲が狭くなってしまうという理由で、旅客化計画を消滅させ、挙げ句に大阪外環状線建設工事に支障する関係で2004年7月を最後に休線となり、今見るように荒廃した姿を晒したというのです。


 しかし・・・喉が渇きました。先程から吹き寄せる西風の中、最後の一滴は遙か7km後方で飲み尽くしてしまっています。もうそろそろ限界です。体中の組織には生気が感じられません・・・。自動販売機を捜しますか。しかしそう思うと、土手道を進んでいても見つかる気がしません。ならば、あの治安の悪そうな町に降りていくか。運命の一瞬。決断は「土手を降りよ!」。自転車が大きくカーブを切り、土手道を滑り降りていきます。西風は最後に無念そうな唸りを上げて吹き寄せませが、高く気付き上げられた土手の前にはあまりに無力。敢えなく砕け散ってしまいました。さて、私管理人は自転車の背に揺られ、小暗い住吉区の町並みに吸い込まれていきます。そして目にしたのは・・・救いの自動販売機! いつもなら見向きもしないのですが、この時ばかりは飛びついて、120円払って「濃い麦茶」を買います。ガコンという音と共に、円い生命のカプセルが目の前に出てきます。間髪を入れず自転車に乗ったまま、一息にペットボトルから冷たい麦茶を呷ります。冷たい水飛沫が喉に流れ込んでいった時、人体の60%が水でできているという事実を初めて痛感しました。体の隅々まで生命力が満ちあふれ、今や目の前に横たわる帰路でさえ、何ともなく思えてきます。シュメールの諺に「腹が減れば地獄に堕ちそうだと喚くくせに、腹一杯になれば神々と競うほどにつけあがる」というものがあったそうですが、真に正鵠を射たものでしょう。腹が減ったら何もできないような絶望感につきまとわれがちですが、お腹いっぱいで喉も潤ってたらば、時間さえあれば何でもできそうなものです。

 さ、水分の補充も終わったので、北に行きましょう。といっても運動場に面したここからは直に北へ行く道がないので、暫く西へ。家から遠ざかっているのは気にしない。暫く行くと、北へ行く道を見つけたので、お地蔵さんの横で右折ます。そこで目にしたものは・・・長居公園! この狭い大阪市にあって、総面積なんと65.7haもの広さを誇る、大阪屈指の公園のひとつです。1928年に建設が計画されましたが、その後戦争のために中止してしまいます。一時、競技場や競輪場として使われていた時期もありましたが、1959年から本格的な造成が始まり、園内は、スポーツ施設、植物園、自然園の3つのエリアに大別され、みどりの相談所や自然史博物館、障害者スポーツセンターなども設けられ、現在に至っています。よく陸上とかにも使われているようで、休日に父親が買ってくる陸上雑誌だとかにこの公園の名前を見た気もしますね。しかし広いもんです。これだけの空間が緑地であると・・・まさしく都会のオアシスですね。少しは寄ってみたいものです・・・が、寄ったら帰って来られないので我慢、我慢。


 長居公園の南西隅で右折して北に向かうと看板が出現。左折して西に向かうと、瀬戸内海に面した大阪有数の商業港、南港に出るようです。が、言ったら恐らく往復で1時間弱のタイムロス。今するにはあまりに危険な賭と言えます。てな訳で泣く泣く直進・・・チキショー、絶対戻ってきてやるぅ・・・。そして更に爆走していくと、もはや家路についてる人々の姿が・・・。こ、これはやばい。もっと急がなくては・・・。しかしそう思ったのは束の間、目の前に「右前:天王寺、前:上本町」という標識を見た瞬間、「折角ここまで来たんだから四天王寺くらい寄らなくちゃ」という思いが胸をよぎります。ということで北西に道をとり、あびこ筋を北上していきましょう。すると真っ先に到着するのが天王寺駅。この辺りの中枢をなす駅ですが・・・正直自転車で移動する人間からすれば邪魔以外の何物でもありません。この駅のせいでどんだけ遠回りすることになったか・・・。


 さて、天王寺駅を何とか通過し、緑地の横を通過中。この緑地は・・・茶臼山ですね。大阪夏の陣の時に徳川家康が本陣を置いたと言われる場所です。内外の壕を埋め立て、外の城壁も全て潰された大坂城を20万の大軍を以て攻め立てた徳川家康でしたが、追いつめられた大阪側の猛反撃が始まります。窮鼠猫を噛むとはよく言ったもので、勇将真田幸村を先鋒とする大阪側は東軍の前衛を蹴散らして、一路本陣を、徳川家康の許に押し寄せます。家康は一時は死を覚悟したほどで、家臣に救われなければ真田軍の白刃にかかる所だったと言います。しかし間一髪の所で家臣に救い出され、窮地を脱すると、そこに続々と、伊達、越前松平、水野といった徳川方の主力部隊が蝟集してきます。さすがの幸村もこの窮地をしのぎきることはできず、力尽きて討たれ、ここに大坂城と豊臣家の命運は決したと言います。

 それはさておき閑話休題、そろそろ四天王寺に着くはずです。ん? あれに見えるは鳥居? この辺神社あったっけ? 地図を見る限りもうそろそろ四天王寺に来てもおかしくないはずなのですが・・・。地元の人に聞いてみましょう。するとやはりあれは四天王寺。なんでもあの鳥居は、吉野の銅鳥居や安芸宮島の木鳥居と並ぶ、日本三鳥居の一つで、もとは木造でありましたが1294年に現在の石造となりました。寺に鳥居は奇異に感じますが、元来鳥居は聖地結界の四門として古来インドより建てられたもので神社に限ったものではないそうです。てな訳で疑問解決、鳥居を潜って四天王寺の中へ。そこで先ず目にしたものは西大門。元来、西の大門と呼ばれていましたが、戦後再建されてからは西方、即ち極楽に通ずる門という意味から極楽門と呼ばれるようになりました。この門にはあまり他所ではみられない「転法輪」という手で回すコマのようなものが4基ついていますが、これは釈尊が教えを説かれることを表す法輪(チャクラ)を小さくしたもので、手で回すことにより「仏の法を教えて下さい」と挨拶代わりにしたのが起源というそうです。


 さて、もっと奥に行きましょう。中央に見えるは、高さ39.5mに及ぶ五重塔。この塔には「六道利救の塔」と別名もあるそうです。というのも、聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込め、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪六毛を納めたからだそうな。聖徳太子で思い出しましたが、この四天王寺は大阪中央部では珍しく、その起源を6世紀まで遡れる古蹟ですね。『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)、仏教導入をめぐる蘇我・物部の抗争の時、劣勢に立った蘇我軍の状況を打開すべく、聖徳太子が自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」と神頼みした所、それが本当になっちゃって造られたという寺院です。物部側の仏教排斥主張の理由に「仏教を導入したから疫病が流行ったんだ」というものがありましたが、実はこれもあながち嘘ではないという事実。遡ること少し、535年にパトゥワラ火山が大噴火し、地球が急激に寒冷化したことから始まった飢饉。中国大陸にもこれは広がり、栄養状態の悪化が深刻化し、疫病が発生するやこれが朝鮮半島経由で日本に伝染してきた訳です。早い話が、朝鮮から仏像と疫病がセットになってやって来たそうですな。その病状というのがまた酷いもので、その瘡を病む者は「体が焼かれ、うち砕かれるように苦しい」と泣き叫びながら死んでいったといいます。まぁ、日本古来の神の怒りと見る向きも至極まっとうな気もしそうな話です。ただ、『スヌーピー』のライナス君によると、人前では「政治、宗教、それにカボチャ大王」の話をしてはいけないそうなので、ここらで打ち切るとしましょう。

 段差の多い東大門から上町筋に滑り降り、勢い余って右折! でもって爆走。ん? ちょっと待てよ、東向いて右は・・・じゃねぇか!! 太陽の位置もおかしいし、念のため地元の人に聞いたら、真っ直ぐ行くと長居公園に行けるんだって。逆走スピリット万歳! なわけねぇだろ! もう日が暮れるぞ、どうすんのよ? まぁ仕方ないんで、上町筋を北上するとしましょうよ。おっと、ここでカーブ。道がよけているものは何と地位さな社。その名も五條宮。なんでもこの神社は橘氏の祖神を祀る全国唯一の神社として鬼門除の神、火難除の神としても遠近からの信仰も厚く、この地における唐制による我邦最古の宮の郡難波京の五條筋にあたり、祭神皇太子時代の御住居跡とも伝えられ、古今を通じて大阪の中心である当地に御鎮座しているとのこと。 橘氏の祖神は橘諸兄、敏達天皇の皇子難波皇子、その子の粟隈王、その子の美奴王と橘三千代の間の子ですね。征夷大将軍になれる源平藤橘の一角ですな。しかもその創建、1400年以上前に遡るとか。滅茶苦茶意外ですね。大阪のイメージ変わります・・・。とりあえず結論としては、四天王寺の北には五條宮という目印があるということですね・・・。突っ込みどころ満載な結論ですが御容赦を。


 更に上町筋を北上すると、上本町へ。所謂上町台地に到達ですね。上町台地というのは、よくニュースで取り沙汰されている上町断層のおかげでできた台地です。低湿な大阪の三角州に聳える台地として古来難波宮、本願寺、大坂城と大阪の中心地となってきた場所です。上本町に入って気付いたんですが、大阪の町って大坂城に近付く毎に番地番号が減るんですね。関目でも見たから確実でしょう。個人的な小さな発見でした・・・。もう知ってる方が殆どな気もしますがね。

 さて、漸く難波宮までやって来ました。思えば長い道程でした。先も長いんですがね。さて、この難波津、遙か昔から外交の港として活躍してきたといいます。山に囲まれた飛鳥・奈良地域で発展してきた大和朝廷にとって、難波津は西日本そして中国大陸との交流をするためにも重要な国際港でした。当時は今の御堂筋のあたりまでは海が広がっていたようで、400年代後半には物資を集積する倉庫群がつくられ、500年代以降の難波津周辺には大使館や迎賓館に相当する施設が多くつくられたそうです。大化改新後、孝徳天皇主導で飛鳥から、外交に便利な難波へ、新しい政治を発展させようという抱負にもとづき、更には聖天子のほまれの高い仁徳天皇の政治を継ごうという覚悟も、政府首脳部はもっていたようです。移った当座は、難波屯倉や難波津を管理し、外国使臣を迎えるための建物が行宮として利用されたようです。都の壮麗さは、『書記』に「其の宮殿の状、ことごとく論ずべからず」とあるほど。しかし遷都8年にして孝徳天皇と中大兄皇子の間の不和が露呈し、中大兄皇子は飛鳥に帰るとだだをこねます。孝徳天皇がそれを突っぱねると、怒った中大兄皇子はそれを無視し、母・皇極上皇や弟・大海人皇子らをひきつれ飛鳥川辺の行宮へ。孝徳天皇の皇后である間人皇女までが天皇をすてて中大兄皇子についていく始末。孝徳天皇は654年、遷都9年にして失意の内に逝去。残された皇子、有馬皇子も帝位の期待はもてず、ノイローゼになってる所を蘇我臣朱兄にはめられて、あっさり捕まり処刑。人々はこの惨めな皇子を憐れみ、山上憶良などは「鳥翔成 あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らぬ松は 知るらむ」という歌を詠んだといいます。大意としては「皇子の魂は、いつもこのあたりの空を通って我等を見ているであろうが、常人にはそれがわからない、しかし、結び松はよく知っていることだろう」と言ったとこでしょうか。結局、686年に民部省の建物から火が出て前期難波宮は炎上してしまいました。

 で、続いて建てられたのが後期難波宮。遷都を乱発した聖武天皇の御代に造られたものです。まぁ、恭仁京や信楽宮まで造るあたりから、そんな遷都マニアだったかは想像が付くかと。しかし、飽きも早いのがこの天皇。結局平安京に遷都すると、自分の無駄遣いのことなどすっかり忘れ、この都をうっちゃってしまったそうな。んで、右写真に遙かに見えるは大坂城ですな。文字通り隣接してますね、この二つ。


 さて、大阪城の堀のすぐ傍までやって来て左手をふと見ると・・・ん? あれは何? 大阪府警の横に、こんな都会のど真ん中に、何故こんな茅葺き屋根が? すごく理解に苦しみます。難波宮時代の民家でも復元したんでしょうか? 知ってる人がおられたら、誰か教えてください。んで、横に聳え立つのが大阪府警。なんであんなにも高いんでしょう。いや、摩天楼は大阪市では決して珍しくはないんですがね・・・。地震来たらどうするんでしょう? この辺確か上町断層通ってた気が・・・。いずれにせよ皆さん、大阪城で変なことはなさらぬよう。あっという間に見つかりますので。さて、無駄話が過ぎたようですな。閑話休題して大坂城に戻りましょう。見るからに見事な壕に石垣ですよね。ここで、この雄姿も秀吉の「難波の夢」・・・なんて考えるあなた、非常に考えが甘いです。今の天守は昭和年間に造られた復興天守閣。大坂城は何回も劫火に舐め尽くされていたんですね。昭和天守閣は寿命が70年を越えただけで最長寿になってるほどですから。


 そもそもここは難波宮が立地したように、上町台地の北端にあたり、富の集まる大阪の町から、摂津・河内・和泉の3ヶ国を睨め降ろす要衝の地。古来より争奪が続いていました。一向宗の牙城石山本願寺は紀伊の雑賀勢の援助も受けながら、淀川・瀬戸内の水運を活かし、中国の毛利氏と結んで織田信長相手に10年以上も熾烈を極めた「石山合戦」を繰り広げました。しかし織田方の九鬼水軍が毛利方の村上・来島水軍を破り始めるに及び、徐々に劣勢に立たされ、ついには敗北してしまいます。そして本能寺の変を経て豊臣秀吉が大阪にはいると、北・東・西の三方が台地上にある本丸からみて低地になっており、北の台地下には淀川とその支流が流れていて、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用しうるという地の利に目をつけ、ここを自身の本拠とします。秀吉の死後、関ヶ原で石田三成が敗れてからも、大坂城だけは豊臣方の天下であり続け、さしもの徳川家康でさえも、日本中から20万もの大軍を動員しなければこれを落とすことはできませんでした。そして、徳川氏の江戸幕府が成立すると、ここは直轄地となり、再建が進められます。もちろん城の縄張りは減らされ、豊臣時代の4分の1にも減ってしまいました。しかし、その代わりに天守や石垣を概ね高くしたようです。高くすることで、豊臣時代の面影をぬぐい去ろうとしたんですかね。

 天満橋を渡って、いよいよ京街道へと突入していきます。このまま道を左にとれば中之島ですが、今はそんな時間の余裕はありませんな・・・。厳密には、京街道の出発地点は京橋なのですが、それよりも土産屋はどこでしょうか・・・。思ったよりも大阪は土産屋が少ないものですね。


 船が停泊する桜ノ宮橋で大川(旧淀川)を渡り、都島区に入ります。土産屋はどこでしょう? 折角ここまで来たんだから土産が欲しい所・・・と、標識が目に。京都まで何ともはや50km以上・・・。帰り着ける気がしないんですが・・・。何はともあれ、国道1号線を進むとしましょう。時間が時間ならば風情ある旧街道を進んでいたはずですが、もう時間が・・・。夕闇迫る大阪です。さて、蒲生にさしかかった時のこと、漸く土産屋の看板が目に入ってきました。千鳥屋・・・申し分ありません。「CMがキモい」という声はありますが、なんとは言っても銘菓。それに味も申し分ありません。千鳥屋蒲生店の女主人とあれこれ世間話をしながらお茶を飲んでほっこりとします。結局買ったのは「みたらし小餅」と「面付豆お多福」。「みたらし小餅」というのは御手洗団子の中と外をひっくり返したような御菓子ですな。これがまた美味しい・・・。後日グリー部の仲間達と食べたというのはまた別の話。


 そして大阪北方の要衝関目に到着します。その名に「関」が付く通り、大阪の北の要です。私が何かとお世話になった先輩はここの教会に通っておられるのですが、なんでも京都大学に合格されたとか。この場を借りて祝意を示したいと思います。おめでとうございます。さて、本題に戻って京街道を北上していきましょう。守口に入るも、京都はなお43kmの彼方。もう良い・・・自分のペースで行こう。どうせ帰れば怒られる。毒も喰らわば皿までだ。やけを起こし、マイペースで進み始めます。その途上、なんと京街道の石碑を発見します。


 そもそも京街道は、豊臣秀吉が文禄年間(1592〜1596)に、大坂と京都を結ぶために淀川左岸の堤防を改修し、堤防上に陸路を開いたものといわれています。大坂城の京橋口を起点として、片町、蒲生、関目、今市から守口、枚方、橋本、伏見、桃山を経て京にいたる政治・軍事上の幹線でした。江戸時代になってからは起点を高麗橋東詰に移しましたが、大坂が天下の台所として栄えるにつれ、ますます頻繁に利用されるようになり、参勤交代の大名や商人、旅人などで大いににぎわいを見せたと言います。コンビニで買ったおやつを頬張りながら、自転車を漕いでいきます。親に聞かれたらまずいのですが・・・糖分補給の上では仕方ありません。

 そういえば、東海道は53次ではなく、57次だったってことを御存知ですか? 幕府は大名が京都にはいることを好まず、大阪から伏見・山科経由で追分以東の東海道に参勤交代させていました。だから、十返舎一九の『東海道五十三次』に描かれているように、東海道の終点は三条大橋ではなく、守口だったとも考えられるんです。実際、幕府の公文書『御傳馬方旧記』には東海道は品川より守口迄という記述もありますしね・・・。尤もここの宿場は、枚方宿へは3里、大坂へは2里という近さであったため、当初から馬継ぎはなく、人足のみの勤めでした。また淀川に面していながら川舟との連絡がなかったため、淀川舟運の発展につれて次第に貨客を奪われていき、宿場の運営に影響を与えました。しかし一方で、清滝街道の分岐点だったこともあり、旅籠や茶屋が立ち並ぶなどして繁栄した側面もあったといいます。守口から寝屋川へ。寝屋川から枚方へ。漆黒の夜空の下を街灯と車のヘッドライトに照らされ、北へ北へ。


 枚方市駅の路地を通っていると、石碑を発見! どうやら、枚方宿のもののようですね。枚方宿といえば、ここは淀の次の宿として、三矢村を中心に、岡新町、岡、三矢、泥町の計四ヶ村を占め、北側の淀川と南側の枚方丘陵の西端にあたる万年寺山(御殿山)に挟まれた地域に東西に細長く続いていました。宿場には本陣(池尻善兵衛家)、家老専用本陣1軒(中島九右衛門家)、脇本陣2軒、問屋場2ヶ所、旅籠は大17軒中18軒小20軒の合計55軒、船宿、茶屋、寺院、民家が軒を連ね、高札場3ヶ所、郷蔵4ヶ所、船番所2ヶ所、紀州侯七里飛脚小屋、町飛脚などが有りました。 問屋場では人足100人、馬100頭が常備され、民家は378軒有ったといいます。京都伏見と大坂八軒家を結ぶ淀川水運は、天下の台所と呼ばれた大坂と大都会である京都を結ぶ物流に重要な地位を占めた。三十石船、二十石船など一千隻以上の大小様々な舟が行き交っていました。三十石船は旅客専用で、夜と昼の一日二便、所要時間は下りが半日、上りは一日だったといいます。流れの速い場所を上る時には、川の両岸から交互に綱で引っ張り上げていたそうですな。先日『探偵ナイトスクープ』で「大和川通勤」なる驚くべきプロジェクトが企画されていましたが、そこでも早瀬や堰は船を陸に揚げて回避してましたしね。枚方宿には行き交う船を監視するための番所も設けられていたといいます。

 しかしその一方で、淀川に面した枚方宿を利用する者は主に京へ上る者に限られていました。上りの船は下りの倍の料金が掛かる上に、所要時間も徒歩と変わりがなかったためですね。天保4年(1833年)の記録によれば、上りと下りの比は10:1と極端に上りに偏っていたそうです。歩くのはただですが、船は金がかかる上に船酔いの危険も大きいためでしょう。因みに私はバス良いが酷いです。バス乗ったらものの5分で酔います・・・。んで、本題に戻りますと、旅客だけでなく貨物においてもこの傾向は変わらず、下りの貨物は殆どが船便を利用するため、下りは慢性的に空荷だったそうです。上り下りの片方だけしか利用されない片宿であった事が、枚方宿の経済を圧迫する要因となっていきます。そして、明治時代になってから蒸気船が導入されたり、明治6年(1876年)に東海道本線(現在のJR京都線)が、1910年に京阪電車が相次いで開通するなど、鉄道が普及したり、淀川水運が衰退したりするに及び、ここ枚方宿は急速に凋落していったと言います。因みに、対岸の摂津国(現在の高槻市大塚)とは渡し舟(枚方渡・大塚渡)で結ばれたそうですね。しかし近年、枚方市はこのような京街道の史跡の保護に非常に熱心なので、町の至る所にさっきのような石碑が建ってますし、もう少し北の鍵屋まで行けば、その史料なんかを見ることができるそうです。

 さて、枚方から続いて橋本に向かいます。男山の麓にあるこの集落は、先程の枚方宿と淀の間の間の宿として立地した場所でした。早い話、幕府から承認を得ていなかったんです。それ故、休憩所としては用いられるものの、旅籠は造れなかったそうです。そして、幕府の承認を得ずに造られたことから、次第に遊郭がその中核となっていったそうです。今からじゃ想像も付きませんが・・・。因みに今の橋本付近は街灯が皆無なので、夜はとても危ないそうです。雀のおせんべいはよく見かけるので、冗談とも言い切れないあたりが怖い・・・。

 で、その町を目指して進んだのですが、何せ夜の枚方。次第に自分がどこにいるのか分からなくなってきます。何とか標識を頼りに大通りに出ます。無論、丘陵性で起伏に富む枚方のことですから、後戻りは許されません。とにかく前進あるのみ。着いたのは・・・なんと国道1号線の招堤。仕方がないので舟橋川を渡り、かつて筒井順慶が天王山の合戦をここから傍観したという洞ヶ峠に突入します。頂上付近に土産屋があったのですが・・・時間が時間、閉まってましたよ。当然と言えば当然ですな。さ、何はともあれ、戻ってきました。京都府に戻ってきました!


 木津川を渡り、ひたすら北へ。大山崎のあたりは車のヘッドライトのせいでしょうか。心なしかぼやっと明るく見えます。そして宇治川を渡ります。遂に戻ってきたのです! 京都市に戻ってきたのです。


 その後伏見の小径をうにゃうにゃ曲がり、竹田街道に乗って一気に京都駅へ。今宵は京都タワーが綺麗ですな・・・。しかし・・・瀬戸内海を見られなかったのが今日唯一の心残りでした。いつの日にか、絶対に行ってやる・・・。忘れないぞ・・・。いつか再び家から飛び出るその日まで・・・。