×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

マネトー断片集

[略伝]

[底本]


1.生涯と著作

T1
『ラテン語碑文集成』8.1007

 マネトー。

T2
ヒベー・パピルス1.72.4ff

T3a
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.73

 私はまず、エジプト人の許にある文書から仕事に入ろう。但しそれらの文書そのものを〔直接ここに〕引用する訳には行かない。〔私が利用できるものはマネトーの中にあるものである〕。マネトーは人種的にはエジプト人だが、またギリシア人の教養を身につけた人でもあった。このことは明らかである。何故なら彼は祖国の歴史を、彼自らが言っているように聖なる書字板から訳出し、ギリシア語を以て書き表しているからである。

T3b
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.228

 (マネトーは)エジプト史をその神聖なる文書から訳すと約束した。

T4
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』28.361F〜362A

 プトレマイオス・ソテル(プトレマイオスT世)は夢の中でプルートンの像を見た。彼はそれまで本物を一度も拝んだことがなかったので、それがどんな像であるかを知らなかった。しかしとにかくそのプルートンの像が彼に、一刻も早くアレクサンドレイアに連れて行けと命じたのである。ところが彼はその像がどこに建てられているのかも知らず、困り果てて友人たちにこの夢の話をすると、ソシビオスという名の、いろいろな所に旅したことがある人物が見つかって、彼の言うことに、プトレマイオス王が見たと信じているような像を、彼は黒海南岸のシノペで見たというのである。そこでプトレマイオスはソテレス、ディオニュシオスの両名を派遣したが、二人は多くの日数を費やし、また散々苦労を重ねた末(それに神の御導きもない訳ではなかった)、像を盗んで運び去った。そして運ばれてきたのを検分した結果、神託や前兆の解釈者であるティモテオスと、ナイル河口セベンニュトスのマネトー、及び彼等の一統の者達が、これはプルートンの像だと断定した。その根拠となったのは、番犬ケルベロスと蛇を伴っていることだった。そして王はこの二人の説明から、これはサラピス以外の何物でもないと確信したのであった。無論この像がシノペから運ばれてきた時はサラピスという名を持っていた訳ではない。アレクサンドレイアについて初めて、この名を与えられたのであった。しかし肝心なのは、サラピスとはプルートンのエジプト語名だと言うことである。

T5
アイリアノス『動物誌』10.16

 その学識で頂点に立つエジプト人マネトー・・・

T6
テルトゥリアヌス『護教論』19.4〜6

T7
エウセビオス『福音の準備』2.5

 エジプト人マネトーはエジプトの全史をギリシア語に訳し、エジプトの神学大系については『聖典』やその他の著作の中で、彼独自の流儀で扱っている。

T8a
エウセビオス『年代記』63.18〜22

 マネトーは3巻本に伝えられるその著書『エジプト誌』で神々とその子孫、死者の霊、ペルシアのダレイオスに至るまでエジプトを治めてきた今は亡きエジプトの諸王について叙述した。

T8b
エウセビオス『年代記』74.7〜17

T8c
エウセビオス『年代記』125.11

 エジプト史を扱ったマネトーの3巻本より。

T8d
エウセビオス『年代記』OL108.3

 

T9
『全世界とその叙述』2

 

T10a
シュネセロス『年代記要覧』22

T10b
シュネセロス『年代記要覧』29〜30

T11
『ラウレンティアヌス古写本』73.1

T12
『スーダ』 「マネトー」の項

 エジプトのディオスポリスまたはセベンニュトスの出身である。自然科学の分野で活躍した。


2.断片集

『エジプト誌』 第1巻〜第3巻

F1
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.73

 マネトーは人種的にはエジプト人だが、またギリシア人の教養を身につけた人でもあった。このことは明らかである。何故なら彼は祖国の歴史を、彼自らが言っているように聖なる書字板から訳出し、ギリシア語を以て書き表しているからである。彼はその中で、ヘロドトスはその無知の故にエジプト史で多くの間違いを犯したと決めつけている。

F2a
シュネセロス『年代記要覧』99〜145

F2b
シュネセロス『年代記要覧』97

F2c
シュネセロス『年代記要覧』486


『エジプト誌』 第1巻

F3a
マララス『年代記』21

F3b
リュドス『月暦譜』4.86

F4
マララス『年代記』59

F5
『誤ったラテン語について』fol.38a


『エジプト誌』 第2巻

F6
『誤ったラテン語について』fol.38a

F7a
マララス『年代記』21

F7b
マララス『年代記』59

F8
プラトン『ティマイオス』21E古注

F9
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.74〜92 エウセビオス『年代記』10.13

 [74]さて、マネトー自身、『エジプト誌』の第2巻で私達について書いている。私は彼自身を証人として尋問しているものと見なし、彼の言葉をそのまま引用しよう。

 「[75]テュティマイオス王の御世のこと。私にはその理由が分からないが、神は怒りの息吹を私達に吹き込まれた。すると、突如として東方から素性の卑しい者たちが現れ、不敵にも私達の国に侵入し、その主力は易々と、戦闘すら交えずに国内を占領してしまった。
 [76]彼等は国内の主だった人々を倒すと、次に乱暴にも都市を焼き払い、神々の聖所を破壊し、前土着民を残酷無惨に扱って、男達のある者を虐殺し、女子供は奴隷として奪い去った。
 [77]そして最後に一味の中のサリティスという者を王とした。
 王はメンフィスに住み着いた。そして上下エジプトから貢物を苛烈に取り立てて、また防備に最も都合の良い場所を選んで守備隊を置いた。特に王は、将来アッシリア人が勢力を増して、彼の国を望んで攻撃してくることを予想し、その東部の国境を固めた。
 [78]王はセトライテ州の中で、〔ナイル〕川の〔支流に当たる〕ブハティスの東に位置し、ある神学上の慣例に従い、アヴァリスと呼ばれる都市を発見してそれを再建し、城壁を以て堅固に要塞化し、24万もの武装した兵士を前衛としてそこに配置した。
 [79]王は夏毎にここにやって来た。そして軍隊に食糧を分配し、給料を払い、異国人を脅迫するために念入りな軍事演習を行った。
 統治19年にして王は死んだ。[80]ブノンと名乗った第2代の王が後を継ぎ、44年間統治した。彼の後継者アパクナスは36年7ヶ月支配した。次のアポフィスは61年、〔更に次の〕ヤンナスは50年1ヶ月統治し、[81]最後にアッシスが49年2ヶ月にわたって支配した。
 彼等の間で最高支配者となったこれら6人の王達の野心はエジプト人を根絶することにあり、それは代毎に増大した。
 [82]さて、この民族は“王の羊飼いたち”という意味のヒュクソスという名で総称された。“ヒュク”は宗教用語で王を意味し、“ソス”は日常用語で羊飼い、或いは羊飼いたちを示し、そしてこれらが合成された結果“ヒュクソス”という語が生まれた。
 彼等はアラビア人だったという人もいる」

 [83]〔しかしながら、別の写本によれば、“ヒュク”という普通名詞は王たちを意味するのではなく、逆にそれは羊飼いたちが捕虜であったことを示している。何故ならエジプト語の“ヒュク”とか、息を出して発音する“ハック”とかいう語は明らかに捕虜たちを意味するからである。〕
 [84]さて、マネトーによれば今まで述べてきた所謂羊飼いたちの王及びその子孫たちは511年の間、エジプトで支配者の地位にあったという。

 「[85]しかし、その後でテーベとエジプトの他の地域の王たちの叛乱が羊飼いたちに対して起こり、この大戦は長く続いた。[86]ミスフラグムートシスの治世の時に、羊飼いたちは〔遂に〕戦いに破れ、その結果彼等はエジプトの殆ど全土から追放され、1万アルラの面積を占める土地に閉じこめられた。
 その場所の名はアヴァリスである。[87]羊飼いたちは自分たちの全財産や掠奪物を守るために、その全域を長大で強固な城壁で囲った。
 [88]ミスフラグムートシスの息子トモシスはこの城壁に対し、48万の兵力を投入し、包囲攻撃を続けて彼等に降伏を迫った。
 〔しかし最後になって、トモシスは〕包囲を断念したので、協定が〔羊飼いたちと〕結ばれた。そしてその協定により、後者は全てエジプトから引き上げ、自分たちが安心できる好きな土地へ行けることとなった。 [89]この和平の取り決めに従って、財産を携え、家族共々24万を超える人々はエジプトを後にして砂漠を越えてシリアに渡った。[90]やがて彼等は当時アジアを支配していたアッシリア人の勢力に怯えながらも、現在ユダヤと呼ばれている国に、一行の甚だ多数を定着させるに足るポリスを作り上げ、それにヒエロソリュマと名付けた」

 [91]なお、マネトーは『エジプト誌』の別な巻の中で、羊飼いたちと呼ばれるこの民族は、彼等の聖なる書物の中で捕虜として描かれていると語っている。
 このマネトーの記述は正しい。
 何故なら、羊を飼育することは私達の最も遠い祖先たちにとって代々受け継がれてきた風習であり、そしてこの遊牧的生活の故に彼等は羊飼いたちと呼ばれてきたのである。[92]しかし彼等がエジプト人たちの記録の中で捕虜たちと描かれていることもまた故無しとしない。というのも、私達の先祖ヨセフはエジプト王に対し、自分は捕虜であると語っており、かつ後になってその王の許しを得て兄弟たちをエジプトに迎え入れたからである。

F10
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.93〜105 エウセビオス『年代記』72.25〜74.6

 [93]現在のところ、私は私達の古さについての証人としてエジプト人を引き合いに出しているのである。そこで私は年代記に関係のあるマネトーからの抜粋を暫く続けよう。彼は以下のように語る。

 「[94]羊飼いたちの民がエジプトからヒエロソリュマへ出発して以来、彼等をエジプトから追い出したテトモシスは25年4ヶ月の統治を続けた後亡くなり、彼の息子ケブロンが王国を引き継ぎ13年間支配した。彼の後アメノヒスは20年7ヶ月。[95]彼の姉妹のアメセスが21年9ヶ月。彼女の息子メフレスが12年9ヶ月。その息子メフラムトシスが25年10ヶ月。その息子のトモシスが9年8ヶ月。[96]その息子アメノヒスが30年10ヶ月。その息子オロスが36年5ヶ月。彼の娘アケンケレスが12年1ヶ月。彼女の兄弟ラトティスが9年。[97]彼の息子アケンケレスが12年5ヶ月。アケンケレスU世が12年3ヶ月。その息子のハルマイスが4年1ヶ月。その息子ラメセスが1年4ヶ月。その息子ハルメセス・ミアムーンが66年2ヶ月。その息子アメノヒスが19年6ヶ月。[98]〔そして王国は〕その息子セトス、或いはラメセスとも言われた王に引き継がれた。
 〔さて、この最後の〕王は騎兵隊と船団とからなる軍隊を所持し、自分の兄弟ハルマイスをエジプトの副王とし、同時に彼に対し、王冠を戴かないこと、王の子供たちの母親である王妃を辱めないこと、同じく王の妾たちに近付かないことを命じ、それ以外の一切の王としての特権を与えた。[99]こうした後、王自身はキュプロス及びフェニキアの遠征に向かい、後更にアッシリア人とメディア人の討伐を行った。王に攻められた国々は王の威勢の前に、戦って後破れるか戦わず服するかして、全て例外なく降伏してしまった。そしてこの成功に勇気づけられた王は一層大胆になり、更に前進を続けて東方の都市や国々の征服を重ねていった。
 [100]〔一方、王が出発して〕暫くすると、エジプトに残されたハルマイス〔副王〕は不謹慎にも兄弟〔である〕王が与えた命令を一切無視してしまった。
 彼はまず王妃を辱め、妾たちを思いのままにし、更に友人たちに煽動されて王冠を戴き、遂には兄弟に対しての叛乱に立ち上がったのである。
 [101]ところがエジプトの神官たちの監督官はセトシスに一書を送り、兄弟のハルマイスの叛乱を含む一切の事件を明らかにした。そこでセトシスは直ちにペルシオンに引き返し、彼の王国を回復した。[102]そして彼の名に因んでこの王国はアイギュプトスと呼ばれるようになった」

 なお、マネトーはこのセトスがアイギュプトスと呼ばれ、彼の兄弟ハルマイスはダナオスと呼ばれたと言っている。
 [103]これがマネトーの説明である。もし上述された年数が加算されるなら、羊飼いたちと呼ばれた者、即ち私達の先祖がエジプトを去って今の私達の国に定着したのは、ダナオスがアルゴスに来た時より〔ちょうど〕393年前のことであったことが明らかである。しかもなおアルゴス人はこのダナオスを最古の人と見なしているのである。
 [104]さて、マネトーはこうしてエジプト人の許にあった文書に基づき二つの最も重要な事柄について証言しているのである。その第一は、私達はかつてどこからかえじぷとにやって来たものであること。次に、その私達はまた遙か古代に即ちトロイア戦争に先立つこと約1000年の昔にそのエジプトから立ち去っていることである。
 [105]なお、マネトーがそれに追加している文章はエジプト人の許にある文書に拠ったものではなく、彼自身も認めているように作者不詳の神話である。

F11
ヨセフス『アピオーンへの反論』2.16

 即ちマネトーは、ユダヤ人たちがテトモシス王の御世にエジプトを出立したが、それはダナオスのアルゴスへの逃亡事件に先立つこと383年であったと述べており、リュシマコスはボッコリス王の時、即ち1700年前のことだとし、モロンその他もそれぞれの流儀で年代を推定している。ところが全ての歴史家の中で最も権威あるアピオーンは、出エジプトの時期を第7オリュムピアドの年と正確に定め、そしてその年にフェニキア人がカルタゴを建設したと言ってるのである。

F12
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.223, 226〜253, 287

 [223]私達に加えられた侮辱は最初エジプトに始まったものである。エジプト人たちを満足させようとしてある人々は事実を歪曲した。彼等は私達の先祖がエジプトに入った時について伝えるが、そこには一致が無く、また彼等はその退去についても真実を伝えていない。・・・
 [226]そして彼等の内のある者はそのあまりにも狭いばかげた了見から、自分たちの古い記録さえ否定してしまい、いやそれどころか激情に前後の見境さえ失って、今否定しているのは実は彼等自身の書いたものの中に入っていることすら分からなくなっているのである。
 [227]これから暫くお相手を願う最初の学者は、私達の民族の古さの証人として既に一度少し前に利用させていただいた方、即ちマネトーその人である。
 [228]エジプト史をその神聖なる文書から訳すと約束したこの著者は、私達の先祖がエジプトに退去して侵入したことをまず以て語り、次に私達の先祖が後になってその国から追われ、現在ユダヤと呼ばれる地域を占領し、エルサレムを建設して神殿を造営したことを自ら認めている。
 さて、著者はここまでは諸々の記録に従っていた。[229]ところが著者はここから先、ユダヤ人に関して言われたり語られたりしていることを書き留めようと言う口実で、勝手気儘にとても信じられないような話に移り、私達の先祖は多くのエジプト人中のレプラ患者その他の疫病病みで、エジプトの地から追放を宣言された者達と一緒に生活していたと説明しようとするのである。
 [230]まず彼はアメノヒスという王を作り出す。架空の名前であるからその治世の年代の確定はさすがに控えている。彼の挙げている他の王たちについては全て正確な年代を与えているにも関わらずである。そして彼は既に一度“羊飼いたち”のエルサレムへの出発は518年前に行われたと言ったことを殆ど完全に忘れ去ってしまって、二、三の神話をこのアメノヒス王に結びつける。
 [231]“羊飼いたち”がエジプトを出たのはテトモシスが王であった時である。そしてそれから代々の王が393年間継承して、セトスとヘルマイオスという二人の兄弟の代に至るまで及んだ。そして、マネトーによればセトスはアイギュプトスと改名し、ヘルマイオスはダナオスと改名したが、セトスはヘルマイオスを追放した後59年間王位にあり、次いで彼を次いだ長男のラムプセスは66年間王位にあった。
 [232]さて、マネトーは私達の父祖たちがエジプトを退去して以来のこのような時の経過をまず認め、次にアメノヒスという架空の王を書き込むのである。

 「ところでこの王は、彼の語る所によると先王の一人オロスのように神々を見ることが出来る者になりたいと願い、未来のことに関する知識と予知に関してこれまた神的な能力を持っていると認められていたパアピオスの息子で彼と同名のアメノヒスにその願いを伝えた。
 [233]この同名の者は、もし王が全国内からレプラ患者その他穢れた人たちを一掃するなら神々を見ることが出来るであろうと王に答えた。[234]これを聞いて喜んだ王はエジプトにいる全ての廃疾者を集めた。その数は8万もの多数であった。[235]そして彼は、彼等を他のエジプト人からは全く隔離されて働くことのできるナイルの東の採石場に送りだした。マネトーによればその中にレプラに苦しむ何人かの学問ある神官たちも入っていた。
 [236]やがてしかし、この知恵ある預言者アメノヒスはこのような冒涜を課せられた人たちが発見されたら、神々の怒りが自分渡欧に対し下るだろうと言う恐怖に取り憑かれた。更に彼はある人々が将来この穢れた人たちの同盟者になり、13年間エジプトを支配すると予知したのである。
 彼はこれらのことを王に告げる勇気がなかったので、完全な文書に書き残して自殺した。王は非常に落胆した」

 [237]更にマネトーは次のように書き進む。

 「採石場の人々は長い間悲惨な生活を続けていたので、王は遂に彼等の願いを容れて、かつて“羊飼いたち”が住んでいた廃墟の都市アヴァリスを彼等の身を守る住処として与えることにした。その都市は神学上の伝統に従って、大昔からテュフォーニオスに捧げられている。
 [238]彼等はそこに行くと今や叛乱に役立つこの場所を得たので、オサルシフォスと呼ばれた、へリオポリスの神官たちの一人を彼等の指導者に立て、全てのことにおいて彼の権威に服することを誓った。
 [239]最初の法律が彼等のために定めたことはこうだった。即ち神々を跪拝しないこと、またエジプトにおいて特に敬意を払われている聖なる動物たちから遠ざかったりせず、それら全てを〔遠慮無く〕殺して食い尽くしてしまうこと、そして誓いを立てて仲間になった者以外の何人とも関係を持たないことである。
 [240]そして彼はこのような、またこれに類する、エジプト人の習慣に徹底的に反する多くの法律を制定した後、全員に都市の城壁の修復を行うよう、及びアメノヒスとの戦いに備えるよう命じた。
 [241]次いで彼は他の神官たちやまた彼のように穢れた人と協同で、テトモシスによってヒエロソリュマと呼ばれている都市に追放されている“羊飼いたち”の許に使節を派遣し、彼自身や彼と共に虐待を受けている者達の様子を説明した後、エジプトに対する合同の遠征に加わるように誘った。
 [242]使節は彼等をその先祖の町アヴァリスまで案内すること、多数の人々のために十分な食糧を用意すること、次いで時が来れば直ちに起って彼等のために戦い、即座に国を降伏させることを約束した。
 [243]羊飼いたちはこの約束を聞いて大いに喜び、20万人の人々が全員勇んで一団となって出発し、やがてアヴァリスに到着した。
 一方エジプト人の王アメノヒスは彼等の侵入の報せを聞いて大いに狼狽し、パアピアスの子アメノヒスの予言を思い起こした。
 [244]彼はまず大勢のエジプト人を集め、彼等の間の指導者と相談した後、それぞれの神殿で最も崇拝されている聖獣たちを寄せ集め、また各地の神官たちに神々の像をできるだけ確実に隠匿するよう命じた。
 [245]王は5歳になる彼の子セトス――祖父ラムプセスの名からラメセスとも名付けられていたが――の養育を彼の友人に託した。
 彼はエジプト人達――彼等は最強の兵士で、その数は30万であった――を率いて〔ナイル川を〕渡り、敵と対峙したが、[246]自分は神々に対して戦ってはならないのだと考えて会戦を避け、メンフィスに引き返してきた。王はアピスやそこに集められていたその他の聖獣たちを収容すると、直ちに全軍及び全エジプト人を率いてエティオピアに向けて出発した。何故なら、エティオピアの王は彼の支配下にあり、彼に従う義務があったからである。
 [247]さて、エティオピアの王は彼を歓迎し、彼に同行した大勢の者達を全て保護し、その国の産物で人間の食糧となる物を提供して、その国土から追放されている13年間という運命の期間中、彼等が自足できる町々や村々を割り当てた。いや、それどころではない。彼はアメノヒス王の家臣たちを守るためにエティオピア軍をエジプトとの国境に駐留さえさせたのである。
 [248]これがエティオピアにおける状況であった。一方、ソリュマ人は穢れたエジプト人と共に来襲し、住民たちをひどく冒涜的に取り扱った。その結果彼等の不信仰をその時目撃した人々にとっては、昔の羊飼いたちの支配が黄金時代のように思われた程だった。
 [249]彼等は町々や村々を焼いたばかりではない。神殿を襲い、神々の像を打ち壊すだけでは飽きたらず、崇拝されている聖獣たちをローストするため、至聖所を日々の台所として使用し、神官や預言者たちに獣たちの屠殺を強制し、その喉を切らせ、その皮を剥ぐことまでやらせたのである。
 [250]伝えられる所によると、彼等に国の制度と法律を与えた神官はへリオポリスの神官で、へリオポリスにある神オシリスに因んでオサルシフォスと呼ばれていたが、この民族の仲間に入った時その名は改められ、モーセと呼ばれたそうである」

 [251]エジプト人たちが我々ユダヤ人について語っていることは以上である。彼等はこれ以外にも多くのことを語っているが、簡略化のため省略する。
 なお、マネトーはアメノヒスがその後エティオピアから大軍を率いて進軍し、彼の息子ラムプセスも別の軍隊を以て進軍し、二人は共に“羊飼いたち”と穢れた人たちに対して攻撃を加えて撃ち破り、彼等の多数を殺した後敗残の者達をシリアの国境まで追跡したと付け加えている。

F13
コスマス『キリスト教地誌』12

F14
『歴史選集』


『エジプト誌』 第3巻

F15
バーデン・パピルス59(後5世紀)

F16
コレーネのモーセ『アルメニア史』2.12

 このネクタネボスというのはエジプト最後の王である。彼の話はマネトーに扱われており、あるものは彼をアレクサンドロスの父と考えている。


ヘロドトス批判

F17
エウスタティオス『イリアス評』11.480


聖典

F18
ポルフィリウス『断食について』2.55


祭典の書

F19
リュドス『月暦譜』


ケフィの書

F20
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』52.372C

 月の4日目には『ホロスの誕生祝い』という記録にも書かれているように、他の誰よりも先にイシスの子ホロスが太陽に犠牲を捧げたと言われている。そればかりか、人々は日に三度太陽に香を捧げる。日の出には脂の、昼には没薬の、日没時にはキュピと呼ばれる香のお供えをするのである。このそれぞれについての説明は後程申し上げるとしよう。

F21
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』80.383E〜384C

 キュピというのは16の成分を混ぜ合わせた物である。葡萄酒、蜂蜜、干し葡萄、キュペロス、脂、没薬、棘のあるアスパラトスという草、セセリス、更にスキノスの木、瀝青、灯心草、ラパトン、それに加えて大ねずと小ねずの木、それからカルダモンにカラモス、これだけの物を混ぜ合わせるのだが、決して行き当たりばったりに混ぜるのではない。混ぜるのは調剤師だが、彼が仕事をする時には神聖な文書を朗読して聞かせる。・・・
 キュピは飲み物または下剤としても用いられる。これを飲むと体内が浄化されるらしいからである。〈・・・〉これとは違って脂や没薬は太陽の熱を受けて植物がにじませる涙のような物だから、太陽活動の成果と言うことができる。しかしキュピに混ぜられる成分の中には昼よりも夜を好む物がある。それはその本性上冷たい風や、蔭や露や湿気によって育つ物である。・・・
 そのため、日中は太陽のおかげで生まれた単一の物(脂や没薬)、夜間はいろいろな物が混じってできたもの(キュピ)を香として焚くのは大変もっともなことである。

F22
『スーダ』 「ケフィ」の項

 エジプト人マネトーがこれを扱っているが、その調合法(の詳細)については議論がある。

F23
ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』1.10


その他

F24
エウセビオス『福音の準備』

F25
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』9.354C

 今なお多くの人がアメン(これを我々はアンモンと訛って発音している)とはゼウスのエジプト名だと信じているが、セベンニュトスのマネトーはこれを「隠されたもの」という意味であると考え、隠されているということがこの語によって示されていると言っている。先にも名を挙げたアブデラのヘカタイオス(断片8B)は、エジプト人は互いに呼びかける時この語を使っているので、これは挨拶の言葉だと言っている。とするとエジプト人が森羅万象と一つだと信じている最高神をメンと呼んでいるのは、それが見えず隠されている故に呼びかけて、どうか姿をお現し下さい拝ませてくださいと願っていることになる。

F26
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』47.371(B)C

 [49]一方テュポンは魂の内の感じやすく、ティタネス族の神に似て没理性的で気まぐれな要素、また肉体の内の、季節や空気の混ざり具合が異常になったり日蝕が起こったり月が姿を消したりすると、死に晒されたり病に冒されたり混乱したりする要素である。この説明がこれで正しいということはエジプト人がテュポンにつけたセト(“Seth”)という名が証明している。というのは、セトとは一方では「力を振るう者」「強制する者」を意味するが、他方「暫し立ち戻ること」「跳び越えること」も意味しているのである。ベボンというのはテュポンの仲間の名前だという人もいるが、祭司で学のあったマネトーはテュポン自身の異名だといっている。ベボンという名前の意味は「抑制」や「妨げ」ということで、事が本来の道に沿って進行し、向かうべきところに向かっているのをテュポンの力が妨げることからこういうのである。
 [50]そこでこのベボンには家畜ならば最も愚鈍なもの即ち驢馬、野獣ならば最も獣的であるもの即ち鰐と河馬が割り当てられるのである。

F27
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』62.376(A)B

 エジプト側の事共もこれまで話してきたことと一致するようである。例えばエジプト人はしばしばイシスをアテナという名で呼ぶのだが、この場合この名前は「自分から生まれた」というようなこと、つまり何か自分自身に発する動きのことを言っているのである。一方テュポンは前述の通りエジプトではセト、ベボン、スミュ等と呼ばれるが、これは妨げる、或いは押しとどめる強い力、或いは対立、或いは反転させる力を言い表そうとする名前である。またエジプト人は今でも天然磁石のことを「ホロスの骨」と呼び、鉄のことを、マネトーもそう言っているが、「テュポンの骨」と呼んでいる。天然磁石には引きつけられ引っ張られるが、またしばしばこの石にはねつけられ、反対方向に押されていくというようなことがあるが鉄はそれに似ている。そしてまさにその鉄のように宇宙の保存活動、善に沿うた理性に基づく運動も、回転しつつかの激しいテュポン的な力に働きかけ、説得して和らげ、そして引きつける。しかしそうかと思うと、そのテュポン的な力を立ち直らせて元の力に逆戻りさせ、無限の淵に沈めてしまうこともある。

F28
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』73.380(C)D

 テュポンの霊がこういう動物たちに分け与えられると多くの人は言っているが、言わんとしていることは一切の道理に合わない獣のような性質のものは悪しき半神の部分を生まれながらにして持っているのだと言うことで、その悪しき霊を宥め和らげるために人々は動物たちを大切に扱い、更には奉仕しているのであろう。もしもひどい大旱魃が襲って生命に関わる病気やその他いろいろ訳の分からない異常な災害をもたらすと、祭司たちは夜蔭に物を言わずそっと崇められている動物を連れ出してまず脅す。しかしそれでも旱魃が収まらないとその動物たちを神に捧げて殺す。これはその動物に宿る半神の霊に対する懲罰と言うことか、それともこれ以上の物はない大災害に対する大祓なのだろうか。いや、これはマネトーが伝えていることで、エイレイテュイアの町では人間が生きながらにして焼かれたらしいのだが、この人たちは「テュポンの徒」と呼ばれ、遺骨は扇であおいで散らした由である。しかしこれは公開でそれも一定の時期、即ち「犬の日々」、即ち犬星(シリウス)が空にある時期(冬)に行われたものである。しかし先程述べた密やかな動物の犠牲は不定期に、その時々に応じて行われたので、殆どの人はそういう行事のことを知らない。しかし例外はある。それは埋葬の儀というような事が行われる場合で、他の動物たちも列席者に見せてから、全員の立ち会いの許でその動物たちを埋めるのである。こうすることによって今度はこっちからテュポンを悩ませてやり、がっかりさせてやれるのだと当事者たちは信じているのである。アピスは僅かな他の動物と共にオシリスの聖獣だとされているが、あらかたの動物はテュポンの物である。

F29a
アイリアノス『動物誌』10.16

F29b
プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』8.353F〜354A

 同様に彼等は豚を不浄な動物だと信じている。豚は月が欠けている時にことさら交わりたがるというのである。それに豚の乳を飲むと、瘡蓋のできる痒い発疹が出るからである。満月のよるに一度だけ豚を犠牲に供し、その肉を食することがあるが、それに列席する人はこんな話をする。テュポンが満月のよるに一頭の豚を追っていた所、木の柩を見つけた。中にはオシリスの遺体が横たわっていた。テュポンはそれを八つ裂きにしたというのである。但し誰もがこの話を信じている訳ではない。話という物が得てしてそうであるように、これもまた何かが誤り伝えられたものだと人々は思っている。

F30
ヨセフス『ユダヤ古代史』1.107

 なお、わたしたちのこのような立言はギリシア人、非ギリシア人を問わず、古代史を著した全ての者によって証言されている。即ちエジプトの年代記編者マネトー、『カルデア史』の編者ベロッソス、『フェニキア史』の2人の著者モコスとヘスティアイオス、更にはエジプト人ヒエロニムス等によっても裏付けられており、またヘシオドス、ヘカタイオス、ヘラニコス、アクーシラオス、更にエポロスやニコラオスに至っては古代人が1000年も生き延びたことを証言している。