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ベロッソス断片集

[略伝]

[底本]


1.生涯と著作

T1a
ウィトルウィウス『建築書』9.6.2

 他の星学の内12星座と5惑星と太陽と月が人間の一生のあり方にどんな影響を与えるかということはカルデア人の理論に委ねられるべきである。何故なら過去も未来も星を測ることから解明することができるという彼等の占星術の理法は独特のものだからである。彼等の発明をまさにカルデア民族の流れを汲む幾人かが後に伝え、しかも極めて熟達し鋭敏であった。まずベロッソスはコス島のコスの町に居を構えてそこでこの教説を公開した。続いて彼に学んでアンティパテル、次いでアテノドロス(がこの学問を発展させた)。このアテノドロスは誕生からでなく、懐妊から解き明かす占星術の理法を後に残した。

T1b
ウィトルウィウス『建築書』9.2.1

 ベロッソスはカルデアの都市の出――というよりもカルデア族の出――で、アシア中にカルデアの学問を広めた人である。

T1c
ウィトルウィウス『建築書』9.8.1

 カルデア人ベロッソスは正方体から抉り取られ(天空の)傾きに合わせて切り取られた半円型を発明したと言われる。

T2
セネカ『自然研究』3.29.1

 ベルス神の言葉を伝えたベロッソス・・・

T3a
大プリニウス『博物誌』1.7

 (第7巻の)外国の典拠著作家・・・ベロッソス・・・

T3b
大プリニウス『博物誌』7.123

 いろいろな科学の知識で名を挙げた人々は数えきれるものではない。といっても我々は人類の花を摘み分けているのだから、そういう人々に言及しない訳にはいかない。天文学においてはベロッソス。彼の驚くべき予言の故にアテナイでは競技場に公金で、舌に金をかぶせた彼の像を建てた。

T4
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.128〜129

 [128]次に私はカルデア人の間でわたしたちについて書かれたり、語られたりしている事柄に話を進めよう。まさにそれらは多くの点でわたしたち自身の文書と符節の一致を見ているのである。
 [129] 私の呼ぶ証人はベロッソスである。彼は出身はカルデアであるが、天文学及びカルデア人の哲学についての著作をギリシア人のために公にしたので、〔ギリシア語を理解する〕教養人たちに知られている。

T5
パウサニアス『ギリシア記』10.12.9

 デモの後からでもパレスティナ上手のヘブライ人のところで、神託を告げるサベという名の一人の女性が育て上げられていた。サベの父はベロッソス、母はエリュマンテだったと言う。一部の者は彼女を「バビロニアのシビュラ」と呼び、一部の者は「エジプトのシビュラ」と呼んだ。

T6
テルトゥリアヌス『護教論』19.4〜6

 [4]また、他の預言者たちはモーセより後であるが、その中の最も最近の預言者たちでも、あなた方の初期の賢人や法律家や歴史家より後ではない。
 [5]これら一つ一つを時代順に証明するのは何でもないし、その説明は困難ではないのだが、かなりの量であって説明できないこともないのだが、今それを一々述べるのはちょっと長くなりすぎる。たくさんの資料を指で次々と勘定しなければならない。それにエジプト、カルデア、フェニキアなどの最も古い文書を開かねばならない。[6]エジプトのマネトーやカルデアのベロッソスばかりでなく、フェニキア人でテュロの王ヒエロムスやまた、それらの人々の弟子であるメンデスのプトレマイオスやエフェソスのメナンドロス、ファレロンのデメトリオスやユバ王、アピオンやタロスなど、それらの国の人々で、それらをよく証明し、或いは論駁できる者を呼び、彼等から情報をもらわねばならない。また、ユダヤの古代史に通じているユダヤ人ヨセフスの書も検討しなければならない。

T7
タティアヌス『ギリシア人に告ぐ』

 

T8
偽ユスティヌス『異邦人に告ぐ』

 

T9
『全世界の叙述』2

 

T10
コレネのモーセ『アルメニア史』1.1

 

T11a
シュンケロス『年代誌選集』25〜27

 

T11b
シュンケロス『年代誌選集』29〜30

 

T11c
シュンケロス『年代誌選集』32

 

T12
『スーダ』 「デルフォイのシビュラ」の項

 ベロッソスは「カルデアのシビュラ」の父と呼ばれた。彼女の母はエリュマンテである。


2.断片集

『カルデア史』 第1巻

F1
エウセビオス『年代記』6.8〜9.2 = シュンケロス『年代誌選集』50〜53

 

F2
アテナイオス『食卓の賢人達』14.44.639c

 ベロッソスの『バビロニア史』第1巻で、ロオスの月の16日にサカイアと呼ばれる5日間続く祭りがある。この期間中一家の主は召使たちに支配されるのがしきたりだが、その召使の一人はゾガネスと呼ばれて、王の衣裳と似た衣装を纏うと言っている。この祭りのことはクテシアスも『ペルシア史』の第2巻で述べている。


『カルデア史』 第2巻

F3
エウセビオス『年代記』4.11〜6.4

 ベロッソスはその第2巻で諸王を順に列挙し、「ナボパラサロスが王であった時」のように言っている。彼が単に諸王を年代順に列挙し、彼等の業績について少し触れただけで詳細には全く立ち入らなかったのか、統治した王の数に触れただけでその名は言及に値するとさえ思わなかったのか。彼は以下のような体裁で書き始めた。アポロドロスはベロッソスが最初のバビロン王をアロロスとしたことを述べている。彼はカルデア人を10サロイの間統治した。1サロスは3600年からなり、1ネロスは600年、1ソソスは60年である。このような数え方は古代人の昔からしてきた独自の数え方である。アポロドロスによるとアロロス以後、その治世にモーセも記している大洪水が起きたクシストロスに至るまで10人の王がいた。これらの王は120サロイ、即ち約43万年に亘って(バビロニアを)支配した。個々に関して彼は以下のように書いている・・・。

1アロロス10サロイ
2アラパロス3サロイ
3アメロス13サロイ
4アメノス12サロイ
5アメガラロス18サロイ
6ダオノス10サロイ
7エウエドラニコス18サロイ
8アメムゲシノス10サロイ
9オティアルテス8サロイ
10クシストロス18サロイ

シュンケロス『年代誌選集』53, 30, 71〜72
 [53]ベロッソスはその第2巻で大洪水に至までの10人の王とその120サロイ即ち432000年間に亘る治世について記録している。
 [30]ベロッソスはその著書で「サロイ」「ネロイ」「ソソイ」なる語を用いている。1ソロスは3600年よりなる時間単位で、1ネロスは600年、1ソソスは60年よりなる。・・・
 [71]ベロッソスはバビロニア出身のカルデア人アロロスがバビロンにおける最初の王だとしている。彼の治世は10サロイに及んだ。次にアラパロスが治め、アラパロスの後、パウティビブロン市出身のアメロス(が治め)、アメロスの後カルデア人アメノスが統治した。彼の治世にオアンネス(または)アンネドトスという怪物がペルシア湾から現れた。アレクサンドロス・ポリュヒストルは  《以下中断》

F4a
シュンケロス『年代誌選集』53〜56

 [53]ベロッソスはその第2巻で大洪水に至までの10人の王とその120サロイ即ち432000年間に亘る治世について記録している。アレクサンドロス自身もカルデア人の記録を基に、9代目の王アルダテースから10代目のクシストロスという王について以下のように述べている。

 「[54]アルダテースが死んだので、その子クシストロスが18サロイの間統治した。彼の治世に大洪水が起こった。歴史は次のように記している。クロノスが夢に彼に現れて、ダイシオスの月の第15日に人間は大洪水によって亡ぼされるであろうと告げた。従って彼はシッパルの太陽の町に、初め、中頃、終わりについてのあらゆる書物を埋めてそれを残すように命じた。次いで船を造り、親類親友と共にその中に入り、食糧と飲料を積み、動物、鳥、四足獣も入れ、全ての用意の整った後、船を出すように命じた。もし誰かがどこへ航海するのかと尋ねたならば、人間に良きものが与えられるように祈るため、神々の方へと答えればよい。彼は命令に背かずに船を造った。その長さは5スタディオン、幅は2スタディオンであった。それから命令されたことを悉く整えて、妻子親友を乗せた。
 大洪水が起こって、やがて終わった。クシストロスは数羽の鳥を放った。しかし食物も留まるべき場所も見あたらないので、船に帰ってきた。三度目に放ったが鳥は最早船に帰ってこなかった。 [55]クシストロスはその時、地面が現れたのを知った。そこで船室の窓を開き、船が山の上に漂着しているのを見て、彼は妻と娘と水先案内と共に上陸し、地に接吻し、祭壇を築いて神々に犠牲を捧げると、彼は下船した人々と共に見えなくなった。
 船に残った人々は、クシストロスと共に行った人々が帰ってこないので、上陸し、名を呼びながら捜した。クシストロスは最早彼等には見えなかったが、声だけが空から聞こえてきた。その声は彼等に信仰深く生きなければならないこと、なぜならば自分が神と共に住むためにこうして出発し、妻や娘や水先案内が同じ名誉に預かったのも信心の故であることを告げた。また彼は彼等にバビロンに帰ること、かつて彼等に言ったように人々に知らせるべき書物をシッパルから取り出すこと、また彼等がいる所はアルメニア地方であることを告げた。
 彼等はこのことを聞いて神々に犠牲を捧げ、バビロンに向かって歩き出した。アルメニアに漂着した船はアルメニアのクルド山脈にその一部をなお残している。ある人は船のアスファルトを剥がし、持ち帰って毒消し(護符)に用いている。[56]彼等はバビロンに着いてシッパルから文書を掘り出し、次いで多くの町を立て、神殿を建ててバビロンを再興した」

 以上のことはアレクサンドロス・ポリュヒストルから引用したのだが、その彼もこの話をカルデアの偽預言者ベロッソスから採っている。本当は何が起こったか知りたい者は(この話を)聖なる『創世記』と照らし合わせることができよう。そしてカルデア人の記録が如何にそれとかけ離れ、信じがたい話に満ちているかが分かることだろう。

F4b
ヨセフス『ユダヤ古代史』1.93

 この洪水と箱船の物語は、非ギリシア人社会の歴史を書いた著作家なら必ず記載している。例えばカルデア人ベロッソスはある箇所で洪水物語について次のように言っている。

 「いやそれどころか、箱船の一部はアルメニアのコルデュエネ人の住む山に残っており、人々は箱船のアスファルトの一部を剥ぎ取って持ち帰り、魔除けにしていると言われている」。

F5
エウセビオス『年代記』12.17〜13.9

 アレクサンドロス・ポリュヒストルは以下のような説明を加えている。大洪水の後エウエコイオスがカルデアの地を4ネロイの間治めた。彼の後を継いで、彼の息子コマスベロスが4ネロイと5ソソイの間治めた。
 クシストロスと大洪水(の時代)からメディア人のバビロニア攻略に至までの間、ポリュヒストルの計算によれば全部で86人の王がいた。彼はベロッソスの史書からその名を一人ずつ引用している。彼は彼等の統治期間が全部合わせて3万3091年続いたと計算している。
 そしてこの後、これらの大いなる諸王朝の後、メディア人が膨大な軍勢を集結させてバビロニアを落とし、その地の支配者となった。ここに彼は244年間統治した8人の王と28年間統治した11人の王を加えている。その後カルデア人の49人の王が458年間(ここを治め)、続いてアラビア人の9人の王が245年間統治した。これらの年月を経た後、彼はアッシリアにおけるセミラミスの治世について記録している。これに続いて彼はヘブライ人の史書がプルと述べているフロスがカルデア人の王になり、ユダの国に対して軍事行動を起こしたと言っている。そして彼の後、ポリュヒストルが言うようにセナケリモスが――ヘブライ人の史書でも触れられていることだが――王になった。彼はヒゼキヤがユダの王で、エサウが預言者だった頃の王である。

F6
ヨセフス『ユダヤ古代史』1.158

 私達の父祖アブラハムについては、ベロッソスもその名こそ明らかにしていないが、次のように記載している。

 「洪水後の第10代目の者達の中に、天体の知識に詳しい一人の偉大な義人がカルデア人の許にいた」。


『カルデア史』 第3巻

F7
シュンケロス『年代誌選集』390

 カルデア人はナボパラサロスの治世以来の星の動きに関する正確な記録を残していた。ギリシアの天文学者はカルデアの記録を保存していた。共にカルデアにおける天地創造について触れているアレクサンドロスとベロッソスの両者によると、ナボパラサロスが彼以前に(バビロニアを)統治した諸王の業績録を集めて破壊してしまったので、彼の治世以降しかカルデア諸王の正確な記録が残っていないのだという。

F8a
ヨセフス『ユダヤ古代史』10.20

 ヘロドトスはこのように語っている。また、『カルデア史』を著したベロッソスもセナケリブ王に言及しており、王がいかにアッシリア人を治め、どのようにして全アシアとエジプトに遠征したかを次のように述べている。即ち・・・〈欠落〉

F8b
エウセビオス『年代記』13.18〜15.4

 

F8c
ヨセフス『ユダヤ古代史』10.34

 ベロッソスもバビロニアの王メロタクバラダンについて言及している。

F9a
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.130〜144

 [130]さて、ベロッソスはモーセのように〔まず〕最も古い記録に従い、大洪水とそれによる人類の滅亡について記述し、そしてわたしたちの民族の始祖であるノアは、彼が乗った箱船がアルメニアの山の頂に着いて救われたという話を語っている。
 [131]次いで彼はノアの子孫の系譜を、年月も添えて、バビロニア及びカルデアの王ナボパラサロスまで辿り、[132]このナボパラサロスの事跡中のこととして、その息子ナブーコドノソロスの遠征のことを語る。即ちエジプト及びわたしたちの国の人々の叛乱を聞いたナボパラサロスは、いかにして息子ナブーコドノソロスに大軍を以て両国に遠征させたか。また後者はどのようにして全ての敵を撃破し、エルサレムにある聖所を焼き払い、わたしたちの民全てを追い立ててバビロニアに送ったのかを述べ、そしてその結果エルサレムの都はペルシアのキュロスの時まで70年間荒廃したままであったことを述べているのである。[133]なお彼、このバビロニア王はエジプト、シリア、フェニキア、アラビアをも征服し、その勲功はそれまでのあらゆるカルデア及びバビロニアの諸王のそれを凌駕すると付け加える。[134] さて、私は次のようなベロッソス自身の言葉をここに引用しておこう。

 「[135]エジプト、コエレ・シリア、フェニキアの土地に任命されていた太守の反抗を聞いた彼の父ナボパラサロスは自分では到底戦争の労苦に耐えられるとは思わなかったので、自分の軍隊の一部を未だ血気盛んな息子ナブーコドノソロスに託して、太守に立ち向かわせた。[136]ナブーコドノソロスは反抗者と会戦し、堂々と彼を撃ち破って勝利者となり、再びその地方をバビロニアの支配下に置いた。
 しかし暫くすると、彼の父ナボパラサロスは病気となり、統治22年の後、バビロニアの都でその生涯を閉じた。
 [137]程なくして父の訃を聞かされたナブーコドノソロスは、エジプトやその他の地方の事件に決着をつけ、ユダヤ人、フェニキア人、シリア人、及びエジプト国籍の者で捕虜となった者達を大軍隊及び戦利品共々バビロニアに送るよう何人かの友人に託し、自分自身は少数〔の護衛〕を連れ、砂漠を渡ってバビロニアに急行した。
 [138]一方〔バビロニアでは〕政治は依然としてカルデア人たちの手中にあり、〔彼のために用意された〕王冠も貴族の長によって守られていた。
 今や父の全帝国の支配者となった彼は〔バビロニアに〕到着した捕虜たちに、バビロニア内の最適の地を居住区として割り当てるよう命じた。[139]次いで彼はベロス神殿その他を戦利品でもって壮大に飾り、旧市街を再建し、城外に新市街を造り、また将来包囲する者達が河の流れを変えて町に近付くのを防ぐため、市街の内外界を共に三条の壁塁で――内界のものは焼煉瓦とアスファルト、外界のものは素焼煉瓦――で取り囲んだ。[140]こうして彼は市街地を城壁で大規模に囲み、十分な尊厳さを備えた城門の飾り付けを終わると、父の宮殿の傍らに第二の宮殿をも造った。その建物の高さとか堂々たる壮麗さとかを書けば、人はうんざりするだけであろうが、その広大さにも関わらず、この宮殿の完成には15日しか要さなかったことは注目されるべきこととして書き留めておく必要があろう。[141]なお彼はこの宮殿内に広い石のテラスを造り、あらゆる種類の樹木を巧みに植え込んで、山岳風景を彷彿させる所謂「吊り庭」を造った。彼の妻はメディア育ちであったため、彼女に山中にいる思いをさせて喜ばせたかったからである」

 [142]この王についてベロッソスは以上のように語っている。しかし実は彼は『カルデア史』の第3巻でこれ以上のことも語っており、そこではバビロニアはアッシリアのセミラミスによって建設されたなどと誤解したり、またその素晴らしい建造物は彼女によって造られた作品だとでたらめを書いているギリシアの歴史家達に非難を加えているのだ。
 [143]そしてこれらのことに関してはカルデア人の記録こそが信じるに足るものと見なされなければならないだろう。また、このベロッソスの見解と一致するバビロニア王に関する記録がフェニキア人の記録保管所にあり、それは王が如何にしてシリアや全フェニキアを征服したか、その模様を伝えている。[144]さらにまた、これらのことに関してテュロスの籠城戦をその『歴史』の中で記述したフィロストラトスや『インド誌』の第4巻において、上述のバビロニア王は武勇と功績の大きさという点ではヘラクレスのそれにも勝っていたことを立証しようとしたメガステネスなどもやはりベロッソスと同じ見解を示している。何故なら王はリビアの大半とイベリアを征服したとメガステネスは語っているからである。

F9b
エウセビオス『福音の準備』10.10.3

 国を逐われたユダヤ人はナブーコドノソロス治下のバビロニア人の手で捕囚として連れ去られ、ちょうどエレミヤが預言したように70年間(所謂バビロン捕囚を)堪え忍んだ。バビロニア人ベロッソスはナブーコドノソロスについて彼の史書で記録している。・・・キュロスは即位して最初の年、即ち第55オリュンピア紀最初の年(BC559)にゼルバベルのため・・・70年経った後で、ヘブライ人の『エズラ記』にあるように、最初にして最も祝福された帰還を行わせた。

F9c
アンティオキアのテオフィロス『アウトリュウコスに贈る』3.29

 なおまた、我々が述べた歴史年代についてはベロッソスも一致している。ベロッソスはカルデア人の下で哲学し、ギリシア人にカルデアの文献を紹介した人物であり、彼は大洪水についても他の多くの出来事についても探求しているが、モーセと一致したことを述べている。更に彼は預言者たち、即ちエレミヤやダニエルとある部分において一致したことを語っている。それはヘブライ人の間ではネブカドネツァルと呼ばれているナボパラサロスの支配下でユダヤ人たちに起こった出来事である。ベロッソスはエルサレムの神殿についても、神殿がカルデア人の王によってどのような仕方で掠奪されたかを記録し、またキュロスが王として統治を初めて2年目に神殿の基礎が建てられ、ダレイオスが王として統治を初めて2年目に、今度は神殿が完成されたことを述べている。

F10a
ヨセフス『アピオーンへの反論』1.145〜153

 [145]エルサレムの聖所に関するこれまでの記録、即ちそれがバビロニアからの侵入者達によって焼き落とされ、キュロスがアジアの王位を継承した時にその再建が始められたことに関するこれまでの記述内容はベロッソスから引用する次の文書によって〔より一層〕明確となるであろう。[146]即ちその第3巻で彼はこう語る。

 「私が説明した城壁の建設を開始した後、ナブーコドノソロスは病に倒れ、やがて43年の治世を終えてその生涯を閉じた。そして彼の息子エウエィルマラドーコスが王国の主となった。[147]ところが彼は政治を独断的にまたでたらめに行ったため陰謀の犠牲になり、王位に2年間いただけで自分の姉妹の夫ネーリグリサロスによって暗殺された。彼が暗殺された後、彼に対して陰謀を企てたネーリグリサロスが王位に就き、4年間統治した。[148]彼の息子ラボロソアルドコスは一介の少年として9ヶ月間王国を支配した。しかし不良的な性格を顕したため陰謀が企まれ、その友人達に殴り殺された。[149]彼が暗殺された後、謀反人たちは協議し合ってバビロニア人で一味の一人であったナボンネードスに王国を与えた。バビロニアの都市の河口に接した城壁が焼煉瓦とアスファルトを以て造られたのはこの王の治世中のことである。
 [150]さて、この王の治世第17年目のことである。キュロスがペルシアから大軍を率いて来襲し、王国の他の部分は全て占領しておいた後、バビロニアに向かって進軍してきた。彼の来襲を知らされたナボンネードスは軍隊を率いて立ち向かったが敗れ、少数〔の随員〕と共に逃れてボルシッパの町に立てこもった。[152]一方バビロニアを占領したキュロスはその都が余りにも強大に見えたので、都の外側の城壁の破壊を命じた後、ナボンネードスを包囲すべくボルシッパに向かった。 [153]しかしナボンネードスはその包囲も待たずにキュロスの前に降った。キュロスは彼を寛大に扱い、カルマニアを居住地として与えてバビロニアから追放した。ナボンネードスはその地で余生を送り、世を終えた」

F10b
エウセビオス『年代記』15.5〜10

 ポリュヒストルはベロッソスに倣って、ナブーコドノソロスの後にアメルマルドコスが12年間治めたことについて触れている。ヘブライ人の『聖書』では彼はイルマルドコスとなっている。彼の後、ポリュヒストルは述べる、ネーリグリサロスがカルデア人を4年に亘って治め、続いてナボンネードスが17年間統治した。彼の治世にカンビュセスの子キュロスがバビロニアの地を征服した。ナボンネードスは抵抗を試みたのだが撃ち破られ、国外追放の身となった。

F11
エウセビオス『年代記』15.11〜20

 キュロスはバビロニアを9年間治めた。そして彼がダアス平原での戦いで戦死すると、彼の後(を継いで)彼の息子カンビュセスが8年間治め、その後ダレイオスが36年間統治し、そしてクセルクセスと残りのペルシアの諸王が(次々にバビロニアを)支配した。ちょうどベロッソスがカルデアの王統記の簡約版で、(その)背景として(様々な)事件を記録したように、ポリュヒストルも同じことを記録している。このことからしてユダヤ人を捕囚の憂き目に遭わせたのがナブーコドノソロスであり、彼の代からキュロス(即位)に至るまでが70年間――この数字はユダの史書から得られる――であったことが明らかである。

F12
アレクサンドレイアのクレメンス『説教』5.65.2〜3

 ペルシア人やメディア人、それにマゴス僧は彼等の神の像を木や石で造ることはしなかったが、哲学者が水を崇めたように、火を崇拝した。・・・しかしベロッソスはその著書『カルデア史』第3巻で、何年も経った後ペルシア人は人の姿をした(神)像を作るようになったと言っている。それはダレイオスの子にして、アフロディテ・アナイティスの像を(初めて)作ったアルタクセルクスの御世に始まり、(以後人々は)バビロンやスーサやエクバタナ、ペルシアやバクトリア、ダマスクスやサルディスで偶像を崇拝した。

F13
アガティアス『歴史』2.24

 


『カルデア史』 所在不明断片

F14
ヘシュキオス『辞書』 「サラケロ」の項

 ベロッソスの史書によると、(サラケロは)ヘラの侍女であるという。

F15a
大プリニウス『博物誌』7.160

 エピゲネスは112年間生きることは不可能だと宣言した。(しかし)ベロッソスは116年を越えることが可能だと言った。

F15b
センソリノス『誕生日の贈物』17.4

 最も長い生涯はエピゲネスによると112年間だというのだが、ベロッソスによると116年間であるという。(また)120歳より長生きすることが可能であると言う者もいる。

F15c
ヨセフス『ユダヤ古代史』1.107

 なお、わたしたちのこのような立言はギリシア人、非ギリシア人を問わず、古代史を著した全ての者によって証言されている。即ちエジプトの年代記編者マネトー、『カルデア史』の編者ベロッソス、『フェニキア史』の2人の著者モコスとヘスティアイオス、更にはエジプト人ヒエロニムス等によっても裏付けられており、またヘシオドス、ヘカタイオス、ヘラニコス、アクーシラオス、更にエポロスやニコラオスに至っては古代人が1000年も生き延びたことを証言している。


天文学・占星術関連

F16
ウィトルウィウス『建築書』9.2.1〜2

 ベロッソスは月についてこのように公言している。

 「月は半面では白く輝き他面では青みを帯びた色をしている球である。自分の通行路を通ってる内に太陽の円軌道の下を行くと、その時それは(太陽の)放射線と熱の力に捉えられ、白く輝く面をその光の特性故に光の方に向ける。そして太陽の軌道に呼ばれて上の方を向くと、その時はその輝いていない下の方の面は空気と一緒になってしまって暗く見える。それが太陽の放射線の方向と一直線になった場合は、全ての光は上方の面に確保される。その時それは朔月と呼ばれる。
 もっと進んで月が東天の辺りに急ぐと、太陽の力から解放されてその端の部分が極めて細く輝く線となって地に輝きを送る。このことからそれは二日月と呼ばれる。また日々の回転の遅れによってそれは三日月、四日月と日で数えられる。七日目に太陽が西にあり、月が東と西の中間の天空の中程を占める時、天空の広がりで半分だけ太陽から距たっているから同じく半分だけの輝いた回転面を地に対して持つ、太陽と月の間に、実に全宇宙空間が距たって東の月に対し太陽が(全宇宙空間を)越えて反対に西にある時、月は(太陽の)放射線からいよいよ遠のくから、十四日には全円の望の輪形となって光輝を放つ。残りの日は太陰の一月が完結するまで周行して日毎に欠けていき、途中で太陽に呼ばれてその輪と放射線の下を行き、その月々の日の割付ができあがるのである」

F17a
アエティウス『哲学者の物の見方』2.25.12

 ベロッソスは月のことを、半分火の消えた球であるといっている。

F17b
アエティウス『哲学者の物の見方』2.28.1

 アナクシマンドロス、クセノファネス、そしてベロッソスは月が自ら光を放っていると言っている。

F17c
アエティウス『哲学者の物の見方』2.29.2

 ベロッソスは、月がその燃えない面を我々に向けていると言っている。

F18
クレオメデス『天体の循環運動』24

 


その他

F19
セネカ『自然研究』3.29.1

 ベルス神の言葉を伝えたベロッソスは、これらの大異変は天体の運行によって生じると言っている。実に彼は大燃焼にも大洪水にもその時期を指定する程確言している。即ち彼はこう断言する。

 「地上のものが燃え上がるのは、今は様々に異なった軌道を運行している全ての(惑)星が蟹座に集合し、全ての星の球を通って一本の直線を引くことができるように同じ位置に配置された時である。大洪水が将来起こるのは同じ星の群れが山羊座に集合する時である。蟹座では夏至が、山羊座では冬至が引き起こされる。これらは大きな力を持つ星座である。まさに1年の移り変わりにおける最大の転換点だからである」

F20
大プリニウス『博物誌』7.193

 第一級の権威であるエピゲネスはバビロニア人は73万年もの間、天文学的観察を日焼煉瓦に記してきたと教えている。そして期間を一番短く見積もる人――ベロッソスとクリトデモス――は49万年としている。こういうことから推して、アルファベットという物は非情に古い時代から用いられてきたもののように思われる。

F21
マララスによるアラトス古注 p142〜143

 

F22
パコルス135